雪田 2018年10月23日(火) 23時20分
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中国大陸の人びとは昔から海を渡って日本列島にやってきていますが、特に人数の多い時期は伝説も含めて以下です。写真は神戸の中華街。
元寇で日本を攻めた元の軍の一部は元南宋の水軍で、元の領下になった漢民族の兵士でした。鎌倉幕府は捕虜のほとんどを処刑しましたが、前南宋の漢民族の兵士に親近感があり、殺さず生かしたとも言われています。これらの元宋の子孫の生き残りが福岡に残り、日本初のチャイナタウンを作り、日本人の一部となったと言われています。
5、明代の名士
時代は明に移り、航海技術はかなり進歩し、船で中国大陸と日本の長崎港を往来する商人もいました。鄭成功の父親もその1人で、鄭成功の母親は日本人だと言われています。鄭成功は台湾を拠点とし、清に抵抗し明の復興を目指したことでも知られています。日本の古典劇「国姓爺合戦」は鄭成功の明復興運動を題材にしています。
また、明代には海禁があり、中国大陸沿海部の漁師は生活難のため日本の浪人と組んで倭寇をやり、そのまま日本に渡った人が結構いました。安徽省出身の友人から聞いた話では、1980年代、合肥市の近くにある村に日本人が訪れ、「自分たちの祖はここから出た人だ」と言って、ルーツを探しに来たこともあります。さらに、2、30人で資金を出し合い、記念碑まで作りました。残念なことに、その後の反日運動で、その記念碑は現地の高校の学生らによって壊されました。
後期倭寇の頭目で有名な人物に、安徽省出身の王直がいました。彼は海上貿易に貢献し、彼の像は長崎県の平戸にあります。明代の人は長崎と深いかかわりを持っていました。
さらに、明の儒学者である朱舜水が水戸藩で説いた攘夷論(朱舜水が言う夷は清のこと)は、後の幕末の「尊王攘夷」に大きく影響したと言われています。
6、中華民国時代の留学生
清代末から中華民国初期にかけて、多くの中国人留学生が日本に渡りました。ビジネス目的で日本に渡った人もたくさんいます。日本にそのまま残った人びとは神戸や横浜で中華街を作り、中華料理を日本で広げました。彼らは現在で言う在日華僑の最初の代でした。
清王朝を打倒する目的の中国革命同盟会も日本で設立され、孫文の革命活動もこれら華僑の強力な支持を得ました。清王朝が滅び、中華民国に入り、続いて日中戦争。中国本土での内戦に敗れると、中華民国の関係者らは台湾に逃れ、中国本土は中華人民共和国の時代に移り変わりました。激動の時代において、在日華僑らの心も激しく揺れ動きました。
7、東北の人が日本に渡る
1972年に日中は国交を結び、1978年に日中平和友好条約が締結されました。これ以降、中国の東北地方から、残留婦人や残留孤児などが次々と日本に渡り、現在は日本に住む華僑華人の中で最も多い割合を占めています。
彼らの中で、生活が安定し余裕ができた人たちは、中国の東北で過ごした幼少時代や青春時代に思いをはせ、東北の民間舞踊である「ヤンガ舞」のグループを作り、日本のまつりに参加しています。
「ヤンガ舞」のダンス協会の設立式に見て、以上の数千年前から現代に至るまでの中国大陸から日本列島に渡った人びとの歴史が頭に浮かびました。感無量でした。
■筆者プロフィール:雪田
中国北京市生まれ、名古屋在住。北京航空航天大学卒、宇宙開発の研究院で修士号を取得。1990年代に来日し、IT業会社に勤務。現在は語学塾を経営する傍ら、市民グループなどで中国関係の講座をしたり、フリーライターとして日本のことを中国の雑誌などで紹介している。Twitterはこちら
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