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24日、中国のポータルサイト・捜狐に「紅の豚」に学ぶ優雅な生き方について論じた記事が掲載された。写真は紅の豚。
2025年10月24日、中国のポータルサイト・捜狐に「紅の豚」に学ぶ優雅な生き方について論じた記事が掲載された。
記事はまず、「宮崎駿監督作品の『紅の豚』は、『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』とは異なり、より沈黙的で、より深遠な問いである。すなわち理想と信念が崩れた後、人はどうすれば品位を保って生きられるのかという命題だ。主人公のポルコ・ロッソは、第一次世界大戦を生き延びた飛行士であり、ある理由から豚の姿に変わってしまった男である。彼は赤い水上飛行艇を操り、アドリア海を漂いながら賞金稼ぎとして生計を立てている。見かけは洒脱だが、実際は孤独である」と述べた。
その上で、「『ファシストになるより豚のほうがマシさ』という彼の言葉は、この作品全体の精神を象徴している。一見すると自嘲的な言葉だが、実際には深い悲壮さを帯びている。戦後の廃墟の中で、人間は同じ愚行と暴虐を繰り返す。ポルコが豚になるという出来事は、人間の世界への拒絶そのものなのだ。彼は偽りの政治や空虚な英雄主義と共に歩むことを望まない。この豚の魂は、どんな人間よりも澄みきっている」と言及した。
また、「宮崎監督の世界において、飛行とは単なるロマンではなく、存在の意味そのものを示す隠喩である。『天空の城ラピュタ』や『風立ちぬ』では飛行は理想の象徴であったが『紅の豚』においては、もはや尊厳の最後の避難所である。ポルコは地上の世界のすべてを拒んでいる。政治を語らず、理想を信じず、『人』として生きることすら望まないが、それでも空においてだけは宗教的ともいえるほどの敬虔さを保っている。雲海を旋回し、敵機と死闘を繰り広げるその瞬間は、運命への優雅な抵抗である。世界がすでに腐敗していようとも、彼は飛び続ける。なぜなら、それこそが彼の誇りであり、唯一残された体面だからだ」と論じた。
そして、「作中には、赤い飛行艇が海面をかすめ、陽光が翼に反射して、まるで古い夢の残光のようにきらめく、ひときわ美しい場面がある。それは一つの時代の終焉であり、一人の男の頑な姿勢である。彼にとって飛行とは、自由への逃避ではなく、幻滅の果てにもなお屈しない尊厳の舞である。彼の『飛ばねぇ豚は、ただの豚だ』との言葉には、職業への執念だけでなく、魂の自己定義への揺るぎない意志が込められている。たとえ世界から異端と蔑まれようとも、彼は空の中に自らの境界を見出そうとするのだ」とした。
さらに、「『紅の豚』におけるロマンスは、決して少年のような恋ではなく、諦めと未練のあいだに漂う優しさである。作中に登場する2人の女性、マダム・ジーナとフィオ・ピッコロは、ポルコの魂の両極をなしている。ジーナは古き夢であり、戦前の優雅さと哀愁の化身である。彼女の歌う『Le Temps des Cerises(さくらんぼの実る頃)』は、幸福の儚さを歌う古い旋律であり、彼女自身の人生の寓話でもある。彼女は庭園で、決して帰らぬ飛行士を待ち続けているが、その人こそポルコなのかもしれない。待ち続けることは、愛であり、また宿命でもある。宮崎監督はジーナを通して『記憶』を愛のもう一つの形として描いた」と述べた。
一方、フィオについては「新生の象徴であり、若さの勇気と理想の火種である。戦争を知らず、恐れを知らぬ彼女は、情熱と創造の力でポルコの凍った心を溶かしていく。ポルコの『フィオを見てるとな、人間も捨てたもんじゃねえって、そう思えてくるぜ』との言葉は、作中で唯一の真の『救いの瞬間』として、拒絶と孤独に閉ざされていた豚の中に、もう一度希望の灯をともす。ジーナは過去の哀しみ、フィオは未来の希望。二つの力の狭間で、ポルコの魂は飛行と墜落のあいだを漂い続ける。ここでの愛は、ロマンスの終着点ではなく、人間性がまだ死んでいない証しなのだ」と論じた。
記事は、「宮崎監督はポルコが豚になった理由を決して明かさない。しかし、この沈黙こそが物語に最も深い思索の余地を与えている。もし戦争が人間の魂を奪ったのなら、豚になることはポルコにとって最後の道徳的な反抗だったのかもしれない。彼はファシズム体制に取り込まれることを拒み、暴力や偽善と手を組むことを望まなかった。その結果、彼は『豚』という姿で社会の外に身を置くことを選んだ。それは臆病さではなく、文明の腐敗への静かな抗議である。彼の住む断崖の小屋は、世間との境界線であり、赤い飛行艇は彼にとって唯一の国家だ。そこでは彼が法であり、信仰であり、王である。その孤独は消極的な自由であると同時に、人類の自己崩壊への冷ややかなな注解でもあるのだ」とした。
また、「宮崎監督の批判は常に抑制的であり、声高に否定しない。彼は悲しみを風景の中に染み込ませるのだ。『紅の豚』の反戦性は、戦争を直接に告発することにではなく、戦争に魂を蝕まれた者がなお優雅さを保とうとする姿に宿る。これこそが、本作の最も深い政治的メッセージである。全体主義と不条理の世界にあって、屈しない孤独こそが、抵抗のかたちなのだ」と言及した。
そして、「『紅の豚』は表面上こそ飛行冒険譚(たん)だが、実のところ幻滅した者たちに捧げられた挽歌だ。この作品は理想が失われても、ロマンを持って生きることはできると伝えている。終盤、ポルコと空賊パイロットのドナルド・カーチスが空中で拳を交える場面がある。彼らはまるで2人の古風なロマンチストのように、ただ尊厳のために戦う。その戦いは滑稽でありながら悲壮でもあり、人類が意味を求めてあがく最後の姿に酷似している。物語の最後で、ポルコは人間に戻ったのか否かは示されない。この余白こそ、宮崎監督が観客に残した問いである。『人が人であるのは、その姿形ゆえなのか、それともなお愛を信じているからなのか』。答えは、おそらくフィオに向けたあの言葉にある。この瞬間、飛行は逃避ではなく『帰還』となる。これは社会への帰還ではなく、心の中のまだ汚れていない空へ帰ることなのだ」と述べた。
記事は同作を「理想を失った者たちへの静かな手紙である」と表現。「真の勇気とは、世界を信じ続けることではなく、信じられなくなった後もなお、優雅に気高く生きることを選ぶことだと。ポルコは人間であることを拒みながら、誰よりも人間的であった。彼は孤独を選びながら、誰よりも自由を理解し、『豚』という姿で生きながらも、飛行士としての誇りを守り抜いた。揺らめく時代において、彼の飛行はロマンティックな抵抗の形だったのだ。そして今の時代においても、それは1枚の鏡のようにわれわれを映し出している」と結んだ。(翻訳・編集/岩田)
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