和華 2024年6月26日(水) 15時30分
拡大
全日本空輸は日中国交正常化以前からチャーター便を通じて日中の友好交流に取り組んできた。写真は北京の空港。
(1 / 8 枚)
日本最大の航空会社である全日本空輸(ANA)は、岡崎嘉平太2代目社長の下、1972年の日中国交正常化以前からチャーター便を通じて日中の友好交流に取り組んできた。岡崎氏の通訳として30回以上の訪中に同行し、岡崎氏を師と仰いでいた朱金諾氏は、26年前に全日空に入社した。岡崎氏から朱氏へと2世代にわたって日中友好のバトンを受け継ぎ、日本と中国を結ぶ空の架け橋として、今日まで日中交流に尽力し続けている。
【その他の写真】
1972年、田中角栄首相の北京訪問に先立ち、周恩来首相は日中国交正常化を祝う北京での国宴に、自分の名前で日本の友人を招待することを特別に指示した。この招待者は全日空の2代目社長、岡崎嘉平太氏だ。岡崎氏は全日空の創業者の一人として、今日に至るまでの事業発展の基礎を築いただけでなく、日中友好に生涯を捧げ、日中の国交正常化、経済貿易交流に大きく貢献した人物として知られている。周恩来首相と18回も謁見し、周首相から「日中友好の井戸を掘った功労者」と称賛された。
1962年、岡崎氏は自民党顧問の松村謙三氏の訪中に同行し、日中総合貿易に関する覚書の交渉にも参加した。同年11月9日、中国側代表の廖承志中日友好協会会長と日本側代表の高碕達之助氏の間で「日中長期総合貿易に関する覚書」が調印された(LT貿易)。高碕氏の死後、1964年から1974年まで岡崎氏がLT貿易の日本側代表世話人となった。その後、1964年4月20日、廖承志氏と松村謙三氏は北京で日中両国間における貿易事務所の相互設置と常駐記者交換に関する覚書に調印した。これにより日中貿易関係が民間の関係から半官半民の関係へと発展することが実現し、戦後の日中関係史でも画期的な意義を持つ出来事となった。
1972年の日中国交正常化後、日中覚書貿易は歴史的使命を終えたものの、岡崎氏は日中間の経済貿易協力を継続するため、日中経済協会の設立を提案した。日中経済協会は日中友好7団体の一つとして、今日においても日中間の経済・貿易の交流や発展に大きな役割を担っている。
日中国交正常化から2年後の1974年に日中航空協定が締結された。当時は国の持ち株会社である日本航空のみ日中間の定期便路線を就航していた。そのような中、周恩来首相は「岡崎先生は日中国交正常化に多大なる貢献をした。岡崎先生が設立した全日空に相応しい地位を与えるべき」と明確に指示した。中国側の配慮の下、全日空は当時、日中間のチャーター便を数多く就航していた。
1986年12月、中国民用航空局と各界の支援により、全日空は東京から大連・北京への定期便の就航許可を取得した。中国民航局の特別配慮により、岡崎氏の90歳の誕生日である1987年4月16日に念願の中国就航が実現した。この日、岡崎氏は就航初便に搭乗し、大連経由で北京に向かい、人民大会堂で開かれた就航記念式典で原稿なしで30分スピーチを行った。周恩来総理との約束をようやく果たせたことを報告し、周総理と中国政府への感謝の気持ちと、全日空で働く社員一同で今後日中友好とアジアの繁栄に貢献してほしいと述べた。
全日空は新型コロナウイルス感染症流行前においては、中国10都市に就航、旅客便週178便を運航しており、年間約260万人の中国人および外国人旅客が全日空を利用し訪日した。この数字は日中間の往来人数の約25%を占め、両国の経済・貿易・観光交流に大きく貢献し続けている。
岡崎氏は1962年から1989年まで約100回中国を訪れ、チベット自治区と青海省を除く中国全土を巡った。岡崎氏の訪中には随行する通訳・スタッフが多数いたが、1978年から30回以上にわたりこの役目を担ってきたのが朱金諾氏だ。
朱氏は北京外国語大学で日本語を専攻していた際にLT貿易のことを知り、当時から岡崎氏のことを尊敬していた。その後、岡崎氏の通訳として間近で仕事をする中で、そのひたむきさと日中友好への強い信念に深く感銘を受けた。岡崎氏は、アジアの大国である中国と日本はアジアの未来と繁栄のために協力すべきであり、中国と日本は末永く友好的でなければならないと常に考えていた。明治30年生まれの岡崎氏は中国の古典や歴史にも造詣が深く、中国訪問の際によく中国の故事やことわざを引用してあいさつしていたことも印象に残っているという。
岡崎氏は日中友好のためにその生涯を捧げた。当時、LT貿易の覚書は定期的に更新する必要があったが、日本から中国への直行便はなく、香港経由で往復1週間ほどかかることがネックだった。また、日本の右翼団体が日中国交正常化に反対し、岡崎氏の自宅に投石や銃弾で威嚇する者もいた。それでも身の危険を顧みず、日中関係の発展のために尽力した岡崎氏は偉大なる人物といえるだろう。
1997年6月、岡崎氏の訪中通訳として30回以上随行した朱金諾氏が全日空に入社した。これは全日空にとって初めての外国人社員採用だ。朱氏は全日空入社まで、中国国際旅行社総社(CITS・JAPAN)日本法人の副社長を務めていた。日系企業から数々のオファーを受けていたが、生前の岡崎氏との約束を果たすため、全日空への入社を決めた。
旅行業界における豊富な経験を持ち、中国の政策や市場に精通している朱氏は、長年にわたり経営陣に向けて適切な助言を行ってきた。全日空は中国路線拡大のために、1999年から毎年中国人スタッフを採用するようになった。朱氏は岡崎氏の遺志を受け継ぎ、ANAと中国との交流・発展に寄与することを目的に、2004年に当時の大橋社長の賛同を得て、社内で中国人社員会「嘉華会」を発足した。会員は現在63人に上る。朱氏は代表世話人として、しばしば会社の経営トップを招き、中国に関する勉強会や中国路線の販売に関するアイデアを披露するなど、全日空の経営幹部とのつながりを持つ草の根交流のキーマンとして好評を博している。また、全日空が中国新規路線を就航するたびに、朱氏は日中双方のメディア関係者を招待し、就航都市を取材するなど、相互理解を深めることにも貢献している。
このように中国路線のネックワーク拡大と中国担当業務に大きく貢献したことが評価され、朱氏は2021年3月に「2020年東京オリンピック・パラリンピック」の全日空スポンサー代表として推薦され、東京オリンピックの聖火リレーに唯一の中国人として参加した。朱氏は「全日空の一員として聖火ランナーを務めたことは、大変な名誉です。この一生に一度の貴重な経験は、生涯忘れることができないでしょう。この名誉は私だけではなく、嘉華会を含めたすべての外国人社員へのエールにもなります」と語った。
2022年は日中国交正常化50周年を迎えた記念すべき年。岡崎氏の生涯の日中友好への貢献と偉業をより多くの人に知ってもらうため、朱氏は東京の中国文化センターで「日中国交正常化50周年記念―歴史の記憶を甦る―日中50年民間友好使者回顧展」を企画し、その記念開幕式の場で主催者代表として日中友好の井戸を掘った岡崎氏と中国のエピソードを紹介した。
朱氏は「50年前に日中両国が国交正常化できたのは、長年民間交流の促進をしたことがきっかけであったのは間違いない。岡崎先生の遺志を受け継ぎ、日中間の人的交流、特に草の根の民間交流をさらに促進することは私たちの責務であり、今後、初心に戻り、若い世代の交流にもっと力を入れるべきだ」と述べた。
昨今の日中関係が楽観視できない現状の中、朱氏は次の三つの視点から日中関係を見直す時期に来ているのではないかと考えている。
一つ目は大同につき小異を残すこと(求大同存小異)。日中両国は社会制度やイデオロギーが異なり、中国脅威論や台湾問題などの論議を呼ぶ問題が残されている。まずは50年前の日中国交正常化の原点に立ち返り、「日中共同声明」「日中平和友好条約」などの両国政府の共通認識に基づき、これらの問題を適切に対応することが一番大事だということだ。
二つ目は「未来志向」。日本も中国も過去にとらわれ続けていたら前に進むことは難しい。日中関係のより良い発展のため、アジアの繁栄や日中の将来のために、何をすべきかを常に大局の観点で、引っ越しのできない「永遠の隣人」として成熟した日中関係を考えるべきだろう。
三つ目は「温故知新」という言葉の通り、過去から学ぶことだ。2000年に及ぶ両国の友好往来の歴史や日中国交正常化の物語をより多くの若い世代に知ってもらえるよう努力するべきだ。
朱氏は、「私はこれから第二の人生を迎えるが、岡崎先生の薫陶を受け賜った門下生として、これからも日中の架け橋となり、両国の民間交流促進に微力ながら引き続き貢献していきたい」と締めくくった。(提供/日中文化交流誌「和華」・編集/藤井)
【朱金諾氏プロフィール】
全日本空輸株式会社中国室 常任理事
1977年 北京外国語大学アジア・アフリカ言語学部卒業(日本語専攻)
1977年 中国旅行遊覧事業管理総局勤務
1989年 中国国際旅行社総社日本法人副社長、社長代行
1997年 全日本空輸入社 現在に至る
この記事のコメントを見る
和華
2024/6/22
2024/6/24
Record China
2024/4/26
2024/6/21
ピックアップ
we`re
RecordChina
お問い合わせ
Record China・記事へのご意見・お問い合わせはこちら
業務提携
Record Chinaへの業務提携に関するお問い合わせはこちら
この記事のコメントを見る