中国新聞社 2023年3月18日(土) 23時0分
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中国の水墨画などに取り組む欧米人芸術家も増えてきた。その多くは中国絵画の背後にある文化的要素に強い関心を示すという。水墨画の制作を続けるチェコ人芸術家のイージー・ストラッカさんもそんな一人だ。
チェコ人芸術家のイージー・ストラッカさんは、北京市内に住んで水墨画の制作などに取り組む芸術家であり、同市内にある名門美術大学の中央美術学院の特任教授なども務めている。ストラッカさんはしばしば、米国西部劇に登場するカウボーイのような姿になって人前に姿を見せる。単に奇をてらったものでなく、芸術上の考えを反映させるためという。ストラッカさんはこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、水墨画を制作するようになった経緯や考え方を説明した。以下はストラッカさんの言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。
私が初めて中国文化に触れたのは、小学校の5年か6年生の時だった。チェコでは中国製の商品が売られており、そこに書かれていた「四角い文字」に興味を持ったのだ。さらに重要だったのは、両親の本棚で2冊の画集を見つけたことだ。いずれも中国の近現代の著名な画家の作品を紹介するものだった。
私は11歳のころから、筆を使って画集にあった絵をまねして描いた。その後は美術高校に入学して、版画やデッサン、水彩画を学んだ。私はずっと、中国に行って中国絵画を学びたいと願っていた。
高校卒業後はプラハ・カレル大学で中国文学を学んだ。この大学のオルドジヒ・クラール教授と面識があったからだ。クラール教授は「紅楼夢」や「儒林外史」の翻訳も行った研究者だ。私が高校生の時にクラール教授はチェコ国立美術館でも仕事をしており、私は中国美術に関する本を貸していただいた。クラール教授は、私が本当に中国に行って中国絵画を学ぶつもりならば、大学では中国の歴史と文学を学び理解することが役立つと教えてくださった。
そこで大学では中国の歴史や文学、哲学を学んだ。このことは、私の中国絵画の理解に大きく影響した。私は、創作にあたっては伝統を尊重せねばならないと考えるに至った。
私はその後、中国に留学して中央美術学院で中国画を学ぶことになった。私はこの大学で最初、技術面を学びたいと思っていた。しかし学んでいるうちに、考えが変わってきた。特に張立辰先生は定期的に私ら学生を連れて、中国画の伝統的な画題である梅・蘭・竹・菊の写生に出た。この経験は私にとても大きな影響を与えた。私は1995年から2005年までの10年間、古くから伝わる絵画を模写した。しかしこの方法だけでは古人より上手に描けないことに気づいた。そこで2005年からは中国南部の広西チワン族自治区の桂平などに行き、そこで植物や風景画を描いた。私は山や川からインスピレーションを得て、それまでとは違う創作をするようになった。
私には、現代芸術を専門にするチェコ人の友人も多い。だから、彼らからも影響を受けた。ただし、「水墨画から距離を置け」という彼らの忠告には耳を貸さなかった。なぜなら、水墨画は私が芸術を志した初心だからだ。さらには、水墨画は伝統芸術であるだけではなく、現代芸術の表現手段の一つになりえると考えるからだ。
私は中国に来て、生活分野での不思議なほどの進歩を目にした。そのことで、私は日常の光景をよく観察するようになった。そして、日常の生活の場にある、わざわざ語る必要がないようなものにも、大きな真実が込められていると思うようになった。
そこで、中国の工事現場で見られる、セメント袋やミキサーや鉄筋やレンガを描くようになった。これらの汚れているように見えるものを、「水墨画の言葉」を通して、「清浄なもの」として表現しようと思った。
私は異なる文化の要素を結び付けることが好きだ。というのは、人類の歴史を通じて常に、異なる文化が互いに影響を与えあってきたからだ。そもそもが、「完全に純粋な文化」なぞ、これまで存在したことがないのだ。
私は、例えば西洋のバロック様式のような絵画を、水墨画の手法で表現することで、互いに矛盾する特別な効果を得たこともある。私は子どものころから中国の芸術を愛してきたが、一方では根っからの西洋人だ。そこで、私の中にある矛盾した状況を、芸術の言葉を通して表現したいと考えてきた。人とは生活の中で、多くの問題を単純化するが、一方では立体的な視座で見直して、その複雑さにやっと気づくこともある。複数のものを融合させることは、芸術としての立体的な表現でもある。
芸術は、私たちが抱えるいくつかの問題を考えなおし、解决する助けにもなる。そして、芸術における融合の重要な意義は、異なる土地や異なる文化の相互交流と理解を推進することを指し示すことだ。
私は数年前に、チェコ人の友人とある西部劇の映画を見た。その友人は私に、登場人物であるカウボーイの一人が私によく似ていると評して、西部劇のカウボーイの格好をして水墨画を書いてはどうかと勧めた。私は、いくらなんでもめちゃくちゃだと思った。そんなことは絶対にしないと思った。
ところが2年前に、その友人と再び同じ映画作品を鑑賞することになった。友人は再び、私にカウボーイ姿になることを提案した。私は改めて、この問題を考えるようになった。
私はその時までに、パフォーマンス・アートの表現も経験していた。そして、カウボーイの格好をして創作することは異文化間の対話を象徴することになると考えるようになった。中国絵画では哲学と文学の要素が濃厚だ。つまり、いわゆる文人文化に属する。西部劇のカウボーイは正反対だ。彼らは多くの場合に単純で、暴力で問題を解決する。この対極的な状態を組み合わせることで、面白いパフォーマンス・アートが成立すると考えた。
私はその後、「水墨画のカウボーイ」のライブパフォーマンスをたくさんやった。例えば広西チワン族自治区でポニーや水牛に乗ったが、それを見て笑い出す現地住人もいた。私は、その笑いこそが私のパフォーマンス・アートに対する最高の解釈だと思った。実際には、「水墨画のカウボーイ」のパフォーマンスには、でたらめなジョークの要素以外に、深刻なテーマが込められている。それは、異文化とはどのように相互交流すべきか、異なる文化が分かり合える可能性はあるのだろうかと、改めて考えることだ。(構成/如月隼人)
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Record China
2023/3/16
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