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【東西文明比較互鑑】中国の五胡侵入と欧州の蛮族侵入(2)蛮族侵入―2

潘 岳    2022年1月4日(火) 13時50分

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ゴート人が欧州の舞台を去ったあと、運命の神はフランクに訪れた。フランクは「蛮族移動」のなかで唯一「大移動」をしなかったとされるエスニック集団である。古代ローマのコロッセウム。(中国新聞社)

フランクの疎隔

ゴート人が欧州の舞台を去ったあと、運命の神はフランクに訪れた。

フランクは「蛮族移動」のなかで唯一「大移動」をしなかったとされるエスニック集団である。ベルギーの海岸地域とライン川沿いに長く暮らしていたフランクは代々住み慣れた土地からわずかに南下しただけである。東ゴートがイタリアを占領したのとほぼ同時期にフランクはローマの属州ガリアを占領し、メロヴィング朝を建てた。6世紀には現在のフランス領土をほぼ統一、7世紀中ごろにはカロリング朝に交代した。カール大帝はヒスパニアを除く欧州西部を征服し、その領土は西ローマ帝国に匹敵、ビザンツ帝国と東西相並び立つことになった。

東ゴートがローマ人に滅ぼされたのにフランクがここまで発展することができたのはなぜか。主な理由は、フランク王クローヴィス1世がローマ・カトリックに改宗したからである。クローヴィス1世は宗教大会に参加したその足で人の頭を戦斧で割るような人物で、その残虐ぶりは有名だった。しかし、テオドリックは命に代えても改宗しなかったのにクローヴィス1世は改宗した。だからこそ、絶大な勢力を誇るローマ教会も全力で彼を支持したのである。

キリスト教を除けば、フランクとローマの文明に共通点はあまりない。

ローマ皇帝は短髪に桂冠、フランク王は蛮族の印である長髪を常に保ち、「長髪の国王」とよばれた。

ローマは凱旋門や宮殿を擁する都市文明だが、フランク王は農村を好み、周囲に建てられた畜舎では牛や鶏が飼われ、農奴がつくった穀物と酒は市に出すことができた。ローマの中央財政は租税で成り立っていたが、フランク王室の財政を支えたのは「私有荘園」である。

ローマの法体系はローマとそれ以外で違いがあったとはいえ、少なくとも形式上はローマ帝国公民の平等をうたっていた。しかし、フランクの慣習法は身分制である。「サリカ法典」は、フランク人の生命は征服されたガリアのローマ人よりも「高価」だと厳格に規定してはばからない。フランク人平民を殺した場合の贖罪金は1人につき200ソリドゥスだったのに対し、ガリア人の場合は50ソリドゥスからせいぜい100ソリドゥスだった(44)。こうした征服者と被征服者の格差はフランク人とガリア人のエスニック集団格差に、さらに進んで貴族と平民の階級格差に転化していった。フランス革命以前、貴族学者ブランヴィエリは、フランス貴族はガリアを征服したフランクの末裔であり、祖先の特権を受け継ぐのは当然だが、フランスの第三身分はガリア・ローマ人の末裔であり、支配されて当然、政治的権利を要求する資格はないという論を展開している(45)。

証拠にこだわるローマ法は法の原理に支えられた成文法である。しかし、蛮族法は簡単な裁定法と「火神判」「水神判」(46)といった神判方式を採った。証拠不十分な場合は「決闘」に委ねられ、体格に恵まれたフランク人に勝てないひ弱なローマ人は起訴をあきらめるケースがほとんどだった。道理を極めるよりも拳にものをいわせるこうした蛮族の習慣が、後に騎士道精神として多くの尊敬を集めることになったのである。

西ローマの中上層は行財政をつかさどる緻密な官僚制度を擁しており、ピーク時には4万人の官吏がいた。他方フランクは官僚制度を徹底的に排し、封建的な恩貸地〔ベネフィキウム〕制を実行した。恩貸地とは国王が臣下に土地を封じること〔またはその封土〕を指し、土地と兵役で結ばれた忠義的な君臣関係を形成した。当初は土地を世襲できなかったが、長い年月を経て土地は強大な貴族の世襲財産に変化し、国王と大中小領主の多層的分立的な封建体制が中世の欧州に形成されることになった。あたかも独立王国のように、領主は領地内で行政、司法、軍事、財政を司り、生殺与奪の権限を一手に握っていた。モンテスキューによると、カール・マルテルの改革以降、国家は多数の封土に分割され、共通法を執行する必要もなければ、専門的官吏を地方に派遣して司法・行政を督察する必要もなかったという(47)。

フランクは統一戦争の過程で他の蛮族諸国を併合したが、ローマのように属州を設置して中央の管理下に置くことはせず、貴族と教会にその土地を与え、領主自治を保証した(48)。いわゆる国王というのは最大の地主のことである。フランクの歴代国王は死後その土地を子に平等に分け与えた。王権は地方化し、いたるところに「国王領」が生まれた。ゲルマン諸族のあと、スラブ諸族が大々的に東欧に侵入したが、両者の建国方式、制度選択に違いはなかった。ポスト・ローマの欧州は二度と統一されることがなかったのである。この時期の歴史を理解しなければ、欧州政治のその後の変遷を理解することはできない。

封建政治と文官政治

ローマ帝国の制度的遺産が目の前にありながら、フランクはなぜあえて封建制を採用したのか。

ローマの法体系と官僚制度はすべてラテン語の法典、史書に記録されているが、ゲルマンの指導者たちは自族民にローマの文化を学ばせなかったため、ローマの歴史的経験をわがものとする術がなかった。ゴートの例を挙げると、男子が学べるのは母語のみでラテン語を学ぶことはできず、ラテン語を勉強している子は皆から罵られたという。

ゲルマン諸族の言語は8世紀に至るまで書面語を持たなかった。ギリシャ語、ローマ語を学ぶことを拒否したため、中世初期300年間(476年から800年)のゲルマン諸族は文章を書けないのが普通だった。貪欲な好奇心の持ち主だったカール大帝は下手なラテン語を話したが、やはり文章は書けなかった。神聖ローマ帝国の皇帝も例外ではない。中国、宋の太祖と同時代のオットー大帝は、30歳になってようやく読み書きができるようになり、宋の仁宗と同時代のコンラート2世は、書簡が読めなかった。欧州封建貴族の大多数が文盲だったのである。

読み書きができないのだから当然複雑な文書を処理できず、文官システムを構築することもできなかったし、緻密なローマ法を運用することもできなかった。歴史家マルク・ブロックが「大多数の領主と貴族は(名目上)行政官であり法官だったとはいえ、行政官として報告書1枚、勘定書1枚さえ自分で読み、考査することができず、法官として彼らが下した判決は彼らには理解できない法廷言語で記録されていた」(49)と言ったとおりである。官僚制度を運用して統治をおこなうことができず、簡便な封建制度を実施することしかできなかった―だからこそ広大な国土の統治能力をもてなかったのである。当時、知的エリートを養成することができたのは修道院と教会学校のみである。諸侯の行政は領地内の宣教師頼みにならざるを得なかった。カール大帝は外交官と巡察官に司教を登用している(50)。彼が出した勅令、公告、訓戒のほとんどはイングランド出身の修士アルクィンの手でつくられた。数世紀にわたってフランク諸王の主要大臣ポストはすべて教会人士で占められた。教会人士は精神世界を説くだけではなく、行政権力を掌握したのである。

これはローマ帝国の政教関係とは異なる。「ローマ教皇」はローマ皇帝の勅令で決められた(445年)(51)。帝国においては一般的に皇帝権力は教会権力より強かった。しかし、フランク王国では教会と王権が対等に世の中を支配した。教会は政治に全面的に参加するだけでなく、大領主でもあり、王朝による課税の試みを幾度となくはねのけている(52)。こうした行政権力の譲渡は後に「カトリック教会」が勃興する基礎になった。元来、ゲルマンの伝統にも貴重な遺産があった。たとえば代議制民主主義は彼らの軍事民主制から生まれたものであり、ローマの官僚制から生まれたものではない。しかし、彼らはローマの制度をうまく接ぎ木することができず、数百年におよぶ宗教権力の独占支配を招いたのである。

ゲルマン人は自治と封建を選んだ、やはりそれは彼らの「自由な天性」から出たものだという学者がいる。モンテスキューもゲルマン諸族が「分散=散居」と「独立」の生活様式を好んだのは天性だという。「ゲルマン人の居住地は湿地、河、池、森林によって分断されており…… こうした部族は散居を好んだ。……部族ごとに散在していたとき、各部族それぞれが自由で独立していたが、諸部族が混じりあったときでも依然として独立していた。各部族は共通の国家をもちながら各々が独自の政府をもっていた。領土は共有だったが各部族はそれぞれに異なっていた」(53)。

こうしたことから、ゲルマン諸王国は個々に分散しており、互いの融合を求めず、ある種の多極構造を形成していた。

ところで、中国の五胡も同じく草原、森林に暮らす遊牧民で、居住地が砂漠、森林、山谷で分断されていたのも、自由を好んだのも、遊牧社会のアプリオリな「分散性」に制約を受けていたのもゲルマンと同じである。しかし、五胡はその天性により適していたはずの自治や封建分散路線に後戻りすることはなく、多民族一体型の中央集権官僚制を積極的に復興した。五胡の政権は多民族政権であり、一族=一国だったことは一度もない(54)。複数のエスニック集団からなる官僚が政治をおこない、宗教がそれにとってかわることは決してなかった。五胡の君主はみな敬虔な仏教信者だったが、政治方針形成の場面でも、下層の動員手段としても仏教が必要とされることはなかった。彼らには発達した文官システムと官僚制度を運用する能力があったのである。北魏の仏教は隆盛を極め、有名な仏教石窟はすべてこの時期につくられている。寺院は万単位、僧侶は百万単位を数え、仏図戸〔寺院の雑用、寺田の耕作に従事した仏教集団の隷属民〕と廟産〔仏教寺院の財産〕を大量に有し、フランクの教会同様、仏教集団は大地主だった(55)。しかし、北朝君主は決して仏教に縛られることなく、逆に寺院閉鎖、寺田回収、仏図戸の通常戸籍への再編入を断行している。

世界分割と天下融合

800年、カール大帝はローマ教皇から「神聖ローマ皇帝」の帝冠を与えられた。これによってフランク帝国は「ローマ」になったのか。欧州学界での議論は数百年続いている。フランクが「ローマの継承者」たることにそれほど執着しなかった点は、歴史家たちも認めざるをえない。カール大帝は「ローマ皇帝の称号など嬉しくない、教皇が帝冠を与えたがっているのをもっと早くに知っていたらサン・ピエトロ大聖堂には入らなかった」(56)と言ったという。ローマ皇帝となってからもカール大帝は「フランク王」「ランゴバルド王」の肩書を棄てず、有名な806年の『分国令』には「ローマ皇帝」の文言すらない。

フランク人にはローマへのあこがれも敬意も皆無だった。961年、神聖ローマ皇帝オットー1世はランゴバルド人の司教を使節としてビザンツに派遣した。しかし、ビザンツはこの司教が「ローマ人」を代表する資格はないと言った。それに対して司教は、フランクで「ローマ人」と言われるのは一種の侮辱であると答えたという(57)。

ローマからの分離願望はフランクの史書のなかに一番よくあらわれている。

ローマ帝国の黄金時代に編まれた年代記では「百川海に帰す」、つまり王国にはそれぞれの源流があり、多くのエスニック集団も自らの源流をもつとはいえ、それらは最終的にはすべてローマ世界に流れ込み、「神の計画」はローマ帝国において実現する、としている。しかし、ゴートとフランクが自らの史書を編纂するにあたっては、独立した自族の起源を強調し、ローマを歴史から抹消、西部属州に対する蛮族の「武力占領」は「自然継承」にされた。この種の「歴史捏造運動」はフランクの『偽フレデガリウス年代記』で頂点に達する。曰く、「ローマ秩序」はかつて存在したことすらなく、「ローマ世界」は始めから一連のエスニック集団・王国とパラレルに発展してきたものである、しかもそれらは最後までローマ帝国に合流することはなかった、ローマ人は数多くのエスニック集団の一つに過ぎない、というものだ。

この「変換」を完成させたツールが「氏族(gens、ゲンス)」という概念である(58)。「氏族」はゲルマン人のアイデンティティを強化し、このおかげでゲルマン世界はかつて自らが隷属していたローマ秩序から解放されたのである。「エスニック集団分治」がゲルマン世界の核心的特徴になったのだ。

カールの帝国は複数の異なる「エスニック集合体」で構成されていた。宮廷史家が描くカール帝国は、フランク人、バイエルン人、アレマン人、テューリンゲン人、ザクセン人、ブルグンド人、アクィタニア人で構成される連合体で、共通点はキリスト教のみである。欧州の歴史観はこれを境に「一つのローマ」から「複数エスニック集団の分割世界」へと変わっていく。

しかし、五胡政権の歴史観はこれとは完全に異なる。エスニック集団ごとに隔てられた「天下分割」ではなく、それらが混然一体化した「天下融合」である(59)。

エスニシティ上、欧州蛮族の描く歴史は、自族とローマの関係を徹底的に断ち切り、自己のエスニック集団の始祖神話を探し求め、自分たちがローマ世界とは縁もゆかりもないことを証明しようと試みる。他方、中国五胡の史書は例外なく、部族の起源と華夏との複雑にからみあった関係を証明しようと試みる。圧倒的多数の五胡君主は、地縁血縁からいって自身が炎帝・黄帝の末裔であり、華夏の同族であると、自ら証明したがった(60)。

統治の点では、欧州蛮族は法律を通して人為的なセグメントをつくり、複数エスニック集団の混住を決して実行しなかった。他方、五胡政権は一貫して混住を奨励した。前漢・後漢時代の遊牧民族はまだ部族長と漢王朝宮廷の二重管理のもとにおかれていたが、五胡自らが発展させた人口政策は、徹底した大移動、大融合、そして大々的な戸籍管理だった。五胡政権期の大規模移民は50回を超える(61)。ともすれば100万単位の人々が中心地区に移動した(62)。この点、北魏はもっと徹底していた。ストレートに「離散諸部、分土定居〔諸部(部族)は解散し、国家が指定した地域に居住する〕」をスローガンにかかげ、部族長制を打破し、編戸斉民を実施した。

世界観ではどうか。欧州蛮族は、「氏族」の個性がその文明に固有の在り方を決めるという歴史観を崩さなかった。しかし、中国五胡は文明の特性は人種ではなく徳行によって決まることを強調した。五胡君主は好んで孟子の言葉「舜は東夷の人、文王は西夷の人、その徳行が中国に恩沢をもたらす限り、彼らはすべて中国の聖人である」(63)を引き、これを根拠に「帝業に永遠不変はなく、徳によってのみ授かるものだ」と、堂々と主張した。

統一問題ではどうか。欧州蛮族は、ローマ世界は統一されるべきものではなく複数人種〔氏族〕によって分割統治されるものだという歴史認識である。しかし、中国五胡は、中華世界は統一されるべきであり分割統治はできないと考えた。どのエスニック集団が政権をとるかにかかわりなく、最終的な政治目標はみな「大一統」だったのである。

「政統〔政治的実践における理念の継承、一貫性〕」構築の点ではどうか。欧州蛮族は西ローマ帝国の遺産継承にきわめて消極的で、東ローマと正統性を争う気はさらさらないという歴史観である。他方、中国五胡はあらゆる手段を講じて自身の政権を中華王朝の正統に組み入れようとし、常に南朝と正統性を争った。

300年の絶えざる混住と融合を経て胡漢両族は最終的に新たな民族共同体―隋人、唐人を形成した。今日の北方中国人は、その血筋をたどればすべて胡漢融合であり、漢族といえども、商周時代〔紀元前1600年から紀元前256年〕に中原諸侯と周辺エスニック集団とが融合して形成された大エスニック集団なのである。この大融合で生じたのは、誰かによる誰かの同化ではなく、多様な相互変容である。政権もエスニック集団も消長遷移を繰り返したが、どのエスニック集団も政権の座につけば混住融合政策を貫徹したため、「漢族」の数もまたどんどん増えていった。こうして再び古くからのテーマに戻る。漢族の遺伝子的血統はどの王朝をもって基準とするのか。中華民族の大規模な融合、一体化は2000年前にはすでに始まっていたからだ。

こうした歴史観を理解しなければ、五胡の君主がみな習俗上は先祖伝来の気風を有しながら、しかし政治のうえでは先祖の英雄ではなく漢族諸帝を範とした(64)理由が理解できない。フランクとローマが分離してしまったようなことはしなかったし、身の丈にかかわらず「華夷大一統」の理想にこだわった(65)理由も理解することはできない。

古ゲルマン人が「自由散居」に慣れ親しんでいたというなら、中華の各エスニック集団は常に「天下の志」をもっていたといえる。ローマ皇帝の皮肉に直面したとき、ランゴバルド人は「われわれはローマ人たることを望まない」と口答えしただけだった。しかし、北魏人は南朝の皮肉に際して、南朝の方を「島夷〔南方の異民族〕」と罵倒し、われわれこそが中華の正統であると主張した。北魏は単に中原を占拠していたのではなく、文化の上でも「移風易俗之典、礼楽憲章之盛〔風習を良い方に改めることを規範とし、礼楽制度を盛んにする〕」(66)だったからである。

これは空論ではない。東晋の末から劉裕〔宋の武帝〕の帝位奪取の動きが起こると、南朝の知識分子が大量に「北奔」する事態が生じた。北魏は後期、首都洛陽を数百平方キロメートルの巨大都城につくり変えた。飢え渇するが如く南朝官僚制度、衣冠礼楽、書画文学を吸収し、しかもそれに新機軸を加えた(67)。経学において南北に通暁する大儒家は明らかに北朝の方に多かった(68)。529年になると、洛陽を陥落させた南朝の陳慶之が北人と論戦を交えたあとにこう嘆息している。南人はずっと「長江以北は夷狄ばかり」だと思っていたが、「衣冠の士族も中原にいる」ことをいま初めて知った。北朝は「礼儀隆盛にして人も物も豊富」で、自分は「目にするものはみな初めて、言葉で表現できない」、それゆえ「北人を軽視するなどもってのほかだ(69)」と。軍事上の勝利を手にするだけで終わらず、文化のうえでも融合と革新を目指す―五胡のこの気概は古ゲルマン人には想像すらできないだろう。

内モンゴル自治区武川の北魏皇室祭天遺跡(中国新聞社

五胡は成功した。北朝と南朝は共同で後の隋唐文化を形作った。素朴、質素、簡素を旨とする漢代文芸に比べて、隋唐の文芸はスケールが大きく豊かである。北魏・北斉と隋唐の石窟彫像はガンダーラ芸術、グプタ朝芸術、魏晋の気風が融合したものである。隋唐の七部楽、九部楽には中原の曲調(「清商伎」「文康伎」)もあれば、北朝で流行した異郷の調べ(「高麗伎」「天竺伎」「安国伎」「亀茲伎」)もあり、元々西域で生まれた琵琶もまた唐人の心情を表現する楽器になった。北亜〔現在のロシアのアジア部分〕風もペルシャ風も決して「異質」な文化とみなされず、中華エスニック集団はむしろそれらを心から愛した(70)。

五胡は自らを見失ったのか、それともより壮大な自我を獲得したのか。

こうした「天下の志」を理解していなければ、エスニック集団の「融合」を「同化」と誤解するに違いない。文化の「融合」を文化の「流用」と誤って解釈するかもしれない。欧州民族主義の狭隘なパラダイムで思考するならば、いつまでたってもエスニック集団への帰属意識〔Ethnic Identity〕からしか政治と文化を捉えられないだろう。

(44)モンテスキュー著、張雁深訳『論法的精神』商務印書館、1963年、P243。

(45)康凱「〝蛮族〟与羅馬帝国関系研究論述」『歴史研究』2014年第4期。

(46)裁決困難な事例に直面すると、次のように火と水を使って裁定を下した。被疑者に灼熱した鉄を握らせ、火傷をすれば有罪、しなければ無罪〔火神判〕。被疑者を水底に沈め、絶えられず浮き上がってきたら有罪、沈んだまま耐えられたら無罪〔水神判〕

(47)モンテスキュー著、張雁深訳『論法的精神』商務印書館、1963年、P252。

(48)フランクは、西ゴートを破ってピレネー地方を占領したあと土地をすべて王領地として没収し、フランクの官吏とゴートの貴族に荘園・自治領地として与えた。さらにカール大帝の場合は、征服したザクセン、ロンバルディア、イタリア、ヒスパニアの広範な土地を僧侶に封じ、教会領地とした。

(49)マルク・ブロック著、張緒山訳『封建社会』商務印書館、2004年、P153。

(50)ジェームズ・トンプソン著、耿淡如訳『中世紀経済社会史』商務印書館、1961年、P350。

(51)445年、〔西〕ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世は時のローマ司教レオ1世に勅令を発し、ローマ教会を西方教会の最高位に格上げした。勅令には、ローマ司教が制定した法律は全キリスト教会で執行されねばならないこと、ローマ司教が他の教区司祭を召喚すれば必ずこれに応じなければならず拒否できないこと、拒否すれば当該地区総督の手で強制的にローマに移送されることが明記されている。

(52)ジェームズ・トンプソン著、耿淡如訳『中世紀経済社会史』商務印書館、1961年、P297。

(53)モンテスキュー著、張雁深訳『論法的精神』商務印書館、1963年、P241。

(54)統計に残っている匈奴の前趙の官吏は263人、内訳は匈奴が114人(皇族含む)、漢人が131人、その他18人である。考証可能な後燕の官吏は281人。中央官吏175人中、鮮卑慕容部が45人、その他鮮卑族が19人、鮮卑以外が18人、漢人が56人(残り37人は不明)、軍官110人中、慕容部30人、その他鮮卑15人、鮮卑以外15人、漢人20人(残り30人不明)、地方官吏93人(長官クラス34人)中、慕容部22人(長官クラス18人)、その他鮮卑8人、鮮卑以外4人、漢人43人(残り16人不明)となっている。同じく統計に残っている後秦の中枢官僚は30種32人、内訳は皇室が6人、漢人が19人、羌・氐各3人、退職管理1人。また、66人の官吏の内訳は、匈奴鉄弗部27人、漢人26人、鮮卑・匈奴各4人、羌・吐穀渾各2人、匈奴屠各部1人である。周偉洲『漢趙国史』社会科学文献出版社、2019年、P203。

(55)『佛祖統記』巻38。

(56)アインハルト著、戚国淦訳『査理大帝伝』商務印書館、1979年、P30。

(57)この司教はクレモナのリュートプランド。彼は次のように反駁した。自分たちのところでは「ローマ人」という言葉はある種の侮辱である。ロームルスの子孫であるローマ人は兄殺しの末裔であり姦通の産物である。彼らは、借金を返す力がない流民、逃亡奴隷、殺人犯、死刑囚をローマに集めたのだ、と。Reimitz『History, Frankish Identity』P199~P212。

(58)「『ギリシャ人種』または『小アジア人種』というように、人種とは、同じ1つの起源を分かち合い且つ自身の同類を基準に自他の民族(natio)を区別する集団である。……『氏族』という言葉は、遡れば何世代にもわたる血縁集団ということであり、『親が子を育てる(gignendo)』から転じたものだともいえる。それはちょうど『民族』という言葉が『生まれる(nascendo)』に由来するのと同じである」。王晴佳・李隆国『断裂与転型:帝国之後的欧亜歴史与史学』上海古籍出版社、2017年、P290。

(59)「世宗自克高平、常訓兵講武、思混一天下、及覧其策、欣然聴納、由是平南之意益堅矣」。『旧五代史・世宗紀2』

(60)劉淵は自らを「漢氏の甥」としたが、これは漢と匈奴との和親による(その子劉曜はこれを「出自夏後〔祖先は夏の後より出る〕と言い換えたが、これは『史記』に匈奴は夏の末裔と書かれているからである)。また鮮卑慕容部は「昔高辛氏遊于海濱、留少子厭越以君北夷」、氐苻部は「有扈之苗裔、世為西戎酋長」、羌姚部は「禹封舜少子于西戎、世為羌酋」、鮮卑拓跋部は「昌意少子、受封北土」、鮮卑宇文部は「炎帝為黄帝所滅、子孫遁居朔野」といったように、それぞれが炎帝・黄帝の末裔、華夏の同族を主張した。引用は『晋書』の載記、『北史』の本紀による。

(61)村元佑『中国経済史研究』東洋史研究会、1968年、P96~P99。

(62)匈奴の劉漢は63万戸の漢人、氐、羌を首都(平陽、長安)に移住させた。羯の後趙は数百万の漢人、烏桓、鮮卑、巴、氐、羌らを移住させ、政治軍事の要衝都市に定住させた。鮮卑の前燕は烏桓段部、高句麗、鮮卑宇文部、夫余、羯を移住させ、人口は1000万人まで倍増した。氐の前秦は遠方の鮮卑、烏桓、丁零などを根拠地・関中に、さらに関中の氐15万戸を関東の「方鎮に散居」させた。羌の後秦は各地の流浪者や雍、涼などの辺境人を関中に移住させ、その数は100万戸以上に達した。詳細は『晋書』の関連する載記に記載されている。

(63)「舜生于諸馮、遷于負夏、卒于鳴条、東夷之人也;文王生于岐周、卒于畢郢、西夷之人也。地之相去也千有余裏、世之相后也千有余歳、得志行乎中国若合符節。先聖后聖、其揆一也」。『孟子・離婁下』

(64)石勒は言動上あらゆる場面で劉邦に倣い、苻堅は「漢の二武」の超越を範とした。古成詵は「漢、魏之興也」を開戦の口実にするよう姚萇に勧めた(『晋書・姚萇載記』)。権臣・宇文護に実権を握られていた北周の明帝・宇文毓でさえ劉備の「大風歌」を引いて「還如過白水、更似入新豊」「挙杯延故老、今聞歌大風」と、志を明らかにした。

(65)史書を読み聞かせてもらった石勒は、六国を諸侯に封じるよう酈食其が劉邦に進言した話を聞いてたいそう驚き、張良がそれを阻止したと聞いてようやく安心したという。北魏の名君・道武帝は「『春秋』之義、大一統之美」を成し遂げると公言した(『魏書・太祖紀』)。節閔帝〔元恭〕にも「慙為万国首」「書軌一華戎」の言葉がある。赫連勃勃も「四海未同、遺冦尚熾」では「謝責」できないとし、「大禹之業」の復興をこめて華夏の「夏」を国号とし、「統一天下、君臨万邦」の意をこめて首都「統万城」を建設した。

(66)『洛陽伽藍記』巻2。

(67)例えば、孝文帝は南朝の官僚制度を取り入れ、九品官制を正従上下30階に整備した。また、北朝の書道では、「雄強渾穆」の魏碑に加えて、「二王〔王羲之、王献之〕」を取り入れつつそこから剛柔併せもった美を生み出した。

(68)献之『三礼大義』や徐遵明『春秋義章』などのように、北朝の「義疏学」は章句〔句読の学〕(北)と義理〔本質解釈〕(南)の結合である。

(69)『洛陽伽藍記』巻2。

(70)こうした北アジアや西域由来の芸術は「唐風」を媒体に東アジア全域に広がっていった。北斉の「蘭陵王入陣曲」は日本に渡って雅楽となり、「生きた化石」となって今日にまで伝えられている。インドと西域で流行した凹凸画法は、唐代の画家・呉道子らに吸収され、高麗と日本にも伝わった。奈良の法隆寺金堂壁画は今も現存する。王鏞主編『中外美術交流史』中国青年出版社、2013年、P60。

※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「中国の五胡侵入と欧州の蛮族侵入(2)蛮族侵入」から転載したものです。

■筆者プロフィール:潘 岳

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。
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