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【東西文明比較互鑑】中国の五胡侵入と欧州の蛮族侵入(2)蛮族侵入―1

潘 岳    2022年1月3日(月) 14時20分

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ローマのコンスタンティーヌの凱旋門。

部族単位のローカル王国

蛮族は突然ローマにやって来たのではない。漢族が遠方エスニック集団を「夷狄」と呼んだのと同じく、ライン・ドナウ両河川を隔てた異族集団をローマ人は「蛮族」、後に「ゲルマン人」と呼んでいた。漢王朝と同じくローマ帝国はこの両河川に沿って「ゲルマンの長城」を築き、ゲルマン諸部族との「平和共存」をなんとか保っていた。しかし、北匈奴が東方の地を追われると、草原各部族はフン族首領の「鞭」に追い立てられるようにして繰り返しこの脆弱な長城を突破するようになる。ゲルマン人はローマ帝国の懐深くまで侵入し、略奪、殺戮をはたらき、北アフリカやヒスパニアなどの穀倉地帯、銀鉱地帯を占領した。こうしてローマ帝国の人口、税基盤、軍事力は衰退の一途をたどった。420年になると、西ローマ心臓部で防衛軍といえるものはわずか9万の野戦軍だけになった(22)。各蛮族は占領地に次々と国を建てた。スエビ人はヒスパニア北西部を(409年)、ヴァンダル人は北アフリカを(439年)、ブルグンド人はフランス北東部を(457年)、アングロ=サクソン人はブリテン島を(449年)、それぞれ占領した。

これらはすべて部族単位のローカル小王国だったが、文字通り「大王国」をうちたてたのがゴート人とフランク人である。東西ゴート王国は南欧全域(ヒスパニア、イタリア、フランス南部)を占領し(23)、フランク人は西欧の大部分を征服した。

歴史家の統計をみると、476年の西ローマ帝国滅亡に関与した蛮族はわずか12万人である(24)。後に北アフリカに侵入、占領したヴァンダル人が8万、ガリアに侵入したフランク人、アレマン人、ブルグンド人がそれぞれ10万、テオドリックがイタリアにひきつれてきた東ゴート人が30万いる。ここから、ローマ帝国に侵入した蛮族の総人口は75万人から100万人の間と類推される(25)。

1866年ドイツの画家、ハインリッヒ・ライトマン画。455年、ヴァンダル人のローマ略奪。(視覚中国)

他方、西晋・東晋に南下したエスニック集団の人口は数百万を数える。ローマ帝国と西晋の人口規模がほぼ同じだと考えれば、ローマに侵入したゲルマン諸族は数のうえでローマ人にはるかにおよばず、五胡に比べていっそう「ローマ化」しやすかったはずだし、漢文明同様ローマ文明も西欧の地で生き延びたはずである。ところが事実は逆である。これらゲルマン王国は暫時「部分的にローマ化」した個別事例を除いて、ほとんどすべてが「ローマ化」をきれいさっぱり拒絶した。

例えばゴート人は、建国後ただちに被征服者=ローマ人と居住区を別にしており、都城外に建てた城塞のほうに居住するのが普通だった。まるで孤島のように農村にポツンと聳える城塞は、今日の欧州農村の原風景である。血統の純血を保つためにローマ人に同化せず、勇猛な武人精神を保つためにローマ文化に染まらない―ゴート人は「二元政治」(26)を確立した。統治上は「エスニック集団分治〔エスニック集団を分割して統治する〕」を実施し、ローマ人とゴート人の通婚を禁じた。法律上もゴート人は自分たちの慣習法を、ローマ人はローマ法を用いた。行政制度上では、ゴート人は軍事を担い、ローマ人は政事を担当した。文化教育では、ゴート人はラテン語やローマ古典文化の習得に消極的だった。宗教では、ローマ人はキリスト教、ゴート人はキリスト教の中では「異端」とされるアリウス派を信仰した。こうした分割統治の習わしは長年にわたって維持された。イギリスの歴史学者ベリー・アンダーソンが言うように、蛮族の建国は「融合というよりはむしろ分断による方が多かった」(27)

挫折した融合

ゲルマン諸王国のなかで「部分的ローマ化」を推進した唯一の例外が東ゴート王テオドリックである。テオドリックも「二元政治」を実施したが、異なるのはローマ文明の価値に理解があったことだ。

東ゴートの王子だったテオドリックは劉淵同様、人質として過ごした東ローマ宮廷で教育を受け、ローマ貴族社会を熟知していた。しかし、劉淵が『春秋左氏伝』『尚書』に通じていたのと違い、意思疎通に支障なかったとはいえギリシャ語やラテン語を嫌い、署名せずに公文書を発行するため「記号」を彫った印を使っていたほどである(28)。

東ゴート王テオドリック1世

西ローマを配下に治め自らイタリア王となったテオドリックは、ゴート人とローマ人の混住こそ認めなかったものの、西ローマ帝国の文官制度を残し、執政官、財務官、国務大臣らにそのままローマの管理をゆだねた。そしてローマ人には役人になるよう、ゴート人には軍人になるよう命じた。ゴート軍人が手にした唯一の利得は、ローマ人地主に供出を強要した「3分の1」の耕地である。蛮族占領軍が手にした土地としては最も少ない。

寛容なテオドリックの治世下で、ローマ人は服装、言語、法律、習俗をまったく変えずにすんだ。なかでも寛容だったのは宗教である。テオドリックはアリウス派信者だったにもかかわらず自らサン・ピエトロの墓地に赴き、供祭している。キリスト教徒は誰1人としてアリウス派への改宗を迫られなかった。

テオドリックはローマ遺臣の権力をことさらに保護した。一番重用された大貴族ボエティウスはアウグスティヌス以降最も偉大な教会哲学者である。彼は、ユークリッドの幾何学、ピタゴラスの音楽理論、ニコマコスの数学、アルキメデスの機械学、プトレマイオスの天文学、プラトンの哲学、アリストテレスの論理学を翻訳・注釈し、後世の歴史家からは「最後のローマ人」といわれている。

テオドリックはボエティウスに国政を託し、まだ年若いボエティウスの2人の息子をローマ執政官に任じた。争いの絶えなかったローマ遺臣とゴート新貴族だが、テオドリックの実の甥がローマ人の産業を私物化しているとローマ貴族が告発すると、テオドリックは少しの躊躇もなく甥にそれを手放すよう命じた。こうしたテオドリックのローマ遺臣に対する「依怙贔屓」はゴート人の恨みを醸成し、イタリアの2万のゴート兵は「憤懣やるかたない気持ちを抱きつつ平和と秩序を維持していた」(29)。33年のテオドリック治世でイタリアとヒスパニアはローマの昔日の面影を保ち、壮大な都市も、優雅な元老も、盛大な祝日も、敬虔な信仰もそのまま生き残ることになった。

ローマ人と東ゴート人のエスニックグループ融合はまったく可能だったとイギリスの歴史家ギボンはいう。「ゴート人とローマ人が結束すればイタリアの幸福は子々孫々まで続いたはずだ。自由な臣民と教養ある軍人からなる新国民が、その気高い人徳で互いに競争し、次第に成長していくことも完全に可能だった」(30)。しかし言うは易しである。ゴート人とローマ人の間で根深いこととなる亀裂は、まず宗教から始まった。テオドリックはローマ教会に寛容だったが、ローマ教会はユダヤ教を決して許容せず、ユダヤ人教会を焼き払い、その財産を簒奪した。公平を期すため、テオドリックは首謀者のキリスト教徒を厳重に処罰した。これに恨みを抱いたキリスト教徒は次々にテオドリックに背き、東ローマ・ビザンツ教会と頻繁に結託するようになった。

523年、ローマ元老院貴族アルビヌスの裏切りが摘発された。彼は、ローマ人が再び「自由」になれるようゴート王国を滅ぼしてほしいと東ローマ皇帝に親書を送ろうとしたのである。この親書がおさえられるとテオドリックは激怒し、元老院貴族の「裏切り者狩り」をはじめた。このときボエティウスは自ら盾となってローマ人を守ろうとした。「彼らが有罪ならばわたしも有罪だ。わたしには罪がないというなら彼らにも罪はない」。ボエティウスはゴート人にかなり近かったとはいえ、いざというときにはやはりローマ貴族の側に立ったのである(31)。

要するに―ギボンは言う―ゴート人がどんなに寛容であっても、ローマ人の信任はついぞ得られなかった。「これだけ穏便なやり方をとったゴード王国であっても、ローマ人の『自由な精神』が我慢の限界を超えることは必定だった」。「この恩知らずな臣民は、征服者ゴートの出自、宗教、あるいはその品位さえ、ついに衷心から受け入れることができなかった」(32)

このときすでに晩年にさしかかっていたテオドリックは、「生涯かけてローマ人のために粉骨砕身してきたのに得たものは恨みだけだった」ことに、「こうした報いなき愛ゆえに自分が怒りを感じている」(33)と気づいた。結局、彼はボエティウスを処刑した。その際、死を前にしていかなる弁明の機会も与えないという「最もローマらしからぬ」方法を意図的に用いた。処刑まで塔に幽閉されたボエティウスはそこで『哲学の慰め』を書いた。この書物は中世学徒の必読書になった。ボエティウス処刑後はテオドリックのほうも精神的ダメージが大きく、ほどなくして病死、三日三晩苦しみぬいての死だったという。

テオドリックの死から10年後、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、異端撲滅の情熱と故土奪還の熱望から東ゴートに「聖戦」を発動した。ビザンツ教会がアリウス派撲滅の勅令を同時に出す一方で、ユスティニアヌス1世は5250kgの金塊を積んで自らペルシャに講和を求め、東の安寧を確保し、空いた手をすべて西征にふりむけた。535年、名将ベリサリウスを派遣し20年にわたる戦争を敢行、東ゴート王国を滅ぼした。

ローマを捨てたローマ

再び東ローマの懐に帰ることになった西ローマ人、その本願がかなったと思うのが普通だろう。しかし意外にも答えは否である。

ベリサリウスが東ゴートを攻撃すると、西ローマの貴族・庶民は内からそれに呼応した。ローマ貴族シルウェリウス司教の密かな内応があったからこそベリサリウスはローマに無血入城することができた。

しかし、「帝国の軍隊」に対する西ローマ人の歓迎熱は長続きしなかった。長きにわたる攻防戦に辟易した西ローマ人は、最初はろくに入浴もできない、睡眠もとれないといい、後には食糧の不足から東ローマ軍を痛罵した(34)。ベリサリウスはユスティニアヌス1世あての手紙にこう書いている。「いまのところローマ人はわれわれに友好的だが、もしこれ以上苦境が長引けば、彼らはなんのためらいもなく自分たちの利益によりかなった道を選ぶだろう」(35)

西ローマ人の怨恨はシルウェリウス司教を動かした。かつて東ローマ軍の入城を助けた司教がなんと今度はゴート人の潜入を手引きするために夜陰に紛れて城門を解き、彼らにベリサリウスを襲撃させて東ローマ軍の占領を終わらせようとしたのだ。しかし、この陰謀は暴かれ、シルウェリウスは即流刑に処された。ベリサリウスは以降2度とローマ人を信用せず、ローマの城壁にある15の城門の鍵を月に2度交換し、城門守備にあたるローマ人部隊を始終入れ替えた。

こうした「歓迎」から「拒絶」への反転はわずか4カ月の間に起こった。

ビザンツ〔東ローマ〕を捨てたのは貴族ばかりではない。平民もそうだった。多くの西ローマ農民と奴隷はかつての主であるゴートの部隊に戻り、金をもらえなくなったゲルマン人もまた、ほとんどがゴート軍に加わり、一斉に「解放者」に攻撃をしかけた。

西ローマ人は東ゴートにも東ローマにも忠義心がなかった。自分の利益しか重視しない彼らにとっては、だれにも支配されないのが一番だった。ヘルムート・ライミッツが「西部属州のローマ人大多数にとって『ローマ帝国の滅亡』は決して災難ではなかった。実際、地方エリートは蛮族・ローマの軍閥・クライアントキングそれぞれと、より小さな権力単位で協力関係を形成していた」(36)と言ったとおりである。

西ローマ人にも東ローマ人に反抗した理由がある。ビザンツは当地の民生を一顧だにせず、徴税のことしか考えていなかったのだ。戦後のイタリア北部はすでに廃墟と化しており、経済は衰退、人口も激減していた。にもかかわらずベリサリウスの後を継いたナルセス将軍は軍政を敷き、15年にわたって略奪的な税を課した。ビザンツの税吏は徴税のたびにその12分の1を合法的に自身の懐に収めることができた。これが際限なく税をむしりとる狂信的原動力になったのである。ビザンツの税吏が「金切り鋏アレクサンダー」の悪名で知られる所以である(37)。個人が国家の税収からマージンを抜く「徴税請負」は、マケドニア帝国以来続く悪制だったが、ビザンツはこれを国家ぐるみの行為に変えた。また、ビザンツでローマの統治システムが蘇ることはなく、千年続いた元老院制度もこのとき同時に終焉を迎えることになった。

蛮族のテオドリックが苦労してローマの体制を維持しようとしたのに、そもそもローマ人の国であるビザンツがそれを一掃した。もしゴート戦争がなかったら、古代ローマ文明がこれほど早く消滅して中世に突入することはなかった、というのが欧州歴史学者の認識である。どれほどローマに寛容であってもそれが「蛮族」の皇帝である限り、心の内奥では決して受け入れることがなかったローマ貴族の驕りこそ、その責めを負うべきであろう。

東ゴート後の蛮族が、以降苦心して「ローマ化」することは二度となかった。彼らはあっさりとローマの政治制度を投げ捨て、己の道に徹した。ローマの生活と習俗はその後1世紀あまり、欧州の片隅でただ惰性的に続いていただけである。

中華を選んだ中華

テオドリックとボエティウスの君臣関係に似た例が中国にもある。一つは前秦の苻堅と王猛、もう一つは北魏の拓跋燾と崔浩である。

ますは苻堅と王猛。苻堅は五胡のなかで最も仁徳のある君主だが、一方王猛も「華北被占領区」随一の漢族士大夫である。当時、東晋も一時は北伐を試み、大将軍・桓温が関中に進軍すると天下の士大夫たちの期待は頂点に達した。王猛は桓温に会い、互いに相手を値踏みした。そして、桓温は破格の好待遇を用意し、全力で王猛に南下をすすめたが、王猛はこれを拒否した。一番の理由は、桓温が本気で「大一統」をやろうとしていなかったからである。あなたは長安の目と鼻の先にいながら灞水を渡ろうとしない。天下統一の志に嘘があることはみんなお見通しだ―王猛は桓温にそう言ったという(38)。

王猛は苻堅を選んだ。苻堅には「大一統」の志があったからである。氐族の苻堅は生涯ぶれることなく「混六合以一家、同有形于赤子〔六合を混ぜて一家となすべきだ。そうすれば、夷狄もまた赤子のようであろう〕」を心に刻み続けた。長安の鮮卑貴族がまだ十分に帰順していない段階で、危険を冒してでも南征―東晋を討伐する決意をあらわにし、「惟東南一隅未賓王化。吾毎思天下不一、未嘗不臨食輟餔〔東南の一隅(東晋)だけが未だに王化に賓しておらず、我は天下が一つではないことをいつも思い、夕飯も満足に食べる事が出来ていない〕」と言ったという。「統一」なくして「天命」なし(39)―苻堅は百戦錬磨の豪傑だったが決して無謀だったわけではない。ただ「大一統」の最終目的と個人の成否を天秤にかけなかっただけである。これは諸葛亮の「王業は偏安せず」と同じ考え方である。東晋は明らかにその力があるのに全身全霊をかけて北伐をしたことがない。淝水の戦いで大敗を喫し、後世の歴史家に笑いものにされる苻堅だが、初志・使命感という点では南北どちらに軍配が上がるか、火をみるより明らかであろう。

王猛が桓温の誘いを断ったもう一つの理由は、東晋の「為政の道」が王猛の理想と合わなかったからである。東晋は門閥政治をきわめていたが、王猛の理想は儒・法併用の「漢制」だった。一方で法家の「明法峻刑、禁勒強豪〔法を明らかに、厳しい刑罰を定め、地方豪族を取り締まる〕」を求め、同時に儒家の「抜幽滞,顕賢才,勧課農桑,教以廉恥〔くすぶる人材を見出し、有能な人材を重用する。民には耕作や機織りに励むよう促し、己の非を率直に認めて改める勇気をもった人を育てる〕」を求めた。

東晋の官僚は家柄で決まったが、苻堅は下位階層から有能な人材を抜擢し、これを「多士」(40)と称した。東晋は「天下の戸籍の半数は門閥に入る〔朝廷が直接掌握できない〕」だったが、苻堅の統治は末端に及び、自ら〔あるいは使者を使って〕漢族庶民と胡族諸部族を巡察した(41)。また、東晋は玄学を好み、為政者は清談を重んじたが、苻堅は老荘思想、神秘主義を禁じ、かわりに「学為通儒、才堪干事〔儒学に精通し、非常に有能〕」を求めた。

漢族の東晋より氐族の前秦のほうが王猛の「漢制」理解に合致していた。王猛のような真の漢人名族の考えでは、「漢」は人種や血統ではなく理想的な制度である。中華世界のエスニック集団は胡漢問わず、ローマ世界のように「血統」や「宗教」でエスニック集団を区別しない。テオドリックがもし中国に生まれていたなら、あまたの胡漢豪傑が正統をめざす彼を補佐したであろう。

次に拓跋燾と崔浩である。拓跋燾は鮮卑屈指の君主である。一方、崔浩は華北漢人名族の子弟で、3代にわたって北魏皇帝に仕え、経書、史書全般に明るく、天文陰陽の学に通じ、そればかりか自ら張良を気取るほど策略にも長けていた。崔浩は拓跋燾のために建策し、柔然国を放逐、大夏を平定、北燕を滅ぼし、中国北部の大統一を成し遂げた(42)。また、崔浩は拓跋燾の「文治」改革の実施を後押しした。軍人貴族の六部大人官制〔主要「省庁」トップを軍人が独占する体制〕を廃止し、文官制度すなわち尚書省を復活し、秘書省を併設した。また、末端行政機構を整備し、地方官の考課を実施した。律令を3度にわたって改訂、中原の律令条文を大量に取り入れた。さらに崔浩は、鮮卑エリートと漢族エリートの大融合を力説し、素直に聞き入れた拓跋燾は漢人名族数百人を大々的に中央・地方政府に徴召〔出仕を命じる〕した。

拓跋燾は崔浩をこのうえなく寵愛し、自ら崔浩の邸宅に足を運んでは軍事、国事にかかわる重要事について意見を求め、崔浩を称揚する歌曲を楽師に作らせた。崔浩の意見にしか耳を貸さない太武帝〔拓跋燾〕に対する鮮卑貴族の不満は相当なもので、匈奴貴族と鮮卑貴族が共謀してクーデター未遂を起こしたこともあった。

ボエティウス同様、崔浩もエスニシティに足を引っ張られて晩節を全うすることができなかった。彼は北魏国史編纂の責任者だったとき、「逆縁婚」など鮮卑部族時代の旧習をとりあげ、これを石刻して首都の要路わきに立てた。当時すでに中原の倫理観を受け入れ、自らを炎帝・黄帝の末裔と称してはばからなかった鮮卑族はこうした「暴露」に激しく憤った。おりしも南朝宋の文帝が北伐を実行しているときで、鮮卑貴族は祖先を辱めたとして続けざまに崔浩を告発、崔浩は宋と密かに通じて陰謀を企んでいるとの噂まで流した。崔氏は大きな一族だったので、本家筋やその親族の支流が南朝にいたからである。拓跋燾は激怒し、清河の崔氏一門を皆殺しにした。このときすでに齢70を超えていた崔浩は誅殺の辱めを受けた(43)。

漢族と鮮卑の融合はこの「国史の獄」で頓挫しただろうか。漢族と鮮卑の物語は、ゴートとローマのそれとは大きく異なる。

ローマ貴族がしばしばゴートを裏切ったのと違い、「国史の獄」の後も傍系一族は北魏に留まった。孝文帝即位後、清河崔氏は官位4等級のトップに返り咲き、崔光、崔亮らは再び北魏朝廷に仕え、北魏国史の編纂を再開している。なかでも崔鴻は残った資料をすべて網羅し、五胡諸政権の史実を記録した『十六国春秋』100巻を完成させた。

ローマ人の裏切りでゴートが急速に脱ローマ化したのと違い、「崔浩事件」を経ても拓跋燾は「人を以て事を棄てず」、以前と変わらず鮮卑貴族子弟に儒学を学ばせた。崔浩は死んでもその政治は残ったのである。後を継いだ孝文帝はさらに漢化改革を進め、それを頂点にまで高めた。漢族と鮮卑は個人の名誉と屈辱を政治に持ち込まなかった。歴史に対する深い洞察があったのである。

(22)東ローマ軍の4割超(東西ローマ軍全体の5分の1から4分の1)は常に対ペルシャ防衛に割かれており、残りも大部分は駐屯地部隊として、国境地帯の安全にとってそれほど脅威ではない突発事件の処理を主任務にしていた。

(23)西ゴートはフランス南部とヒスパニアを占領(419年)、東ゴートはイタリアを占領した(493年)

(24)ピーター・ヘザー著、向俊訳『羅馬帝国的隕落』中信出版社、2016年、P532。

(25)Tim O’Neillによると、アラリック1世時代の西ゴートは2万人の兵士を含めて総人口はおそらく20万人以下、ローマを略奪したガイセリック配下のヴァンダル人の数もこれに近く、フランク人、アレマン人、ブルグンド人もそれぞれ10万人以下、総数でいえば75万人から100万人だろうという。

(26)建国当初の蛮族はいずれも二元体制をある程度保っていた。つまり、ローマの遺制と蛮族の伝統的習慣が混在していた。そのなかで最もローマ化の程度が高かったのが東ゴート、その次が西ゴートである。ローマ化の消滅にはそれなりのプロセスがあり、西ゴートの二元体制が消滅するのはようやく7世紀の半ばになってからである。ピーター・ヘザー著、向俊訳『羅馬帝国的隕落』中信出版社、2016年、P503。

(27)ペリー・アンダーソン著、郭方・劉健訳『従古代到封建主義的過渡』上海人民出版社、2016年、P81。

(28)「彼は頻繁に学校に通い、有能な教師の指導を受けていた。しかし、ギリシャの芸術を重視せず、最後まで科学の初歩課程に留まり、自らの無知をさらけだしていた。その結果、署名代わりに低俗な記号を用い、文盲のイタリア王と人々に思われていた」。エドワード・ギボン著、席代岳訳『全訳羅馬帝国衰亡史』浙江大学出版社、2018年。

(29)エドワード・ギボン著、黄宜思他訳『羅馬帝国衰亡史』商務印書館、1996年、P165。

(30)エドワード・ギボン著、黄宜思他訳『羅馬帝国衰亡史』商務印書館、1996年、P158。

(31)次のような異論を唱える学者もいる。ボエティウスの死は、東ゴート支配者とローマ元老院貴族との対立または正統キリスト教と「異端」とされたアリウス派との宗教的対立が原因ではなく、ローマ元老院および東ゴート宮廷内の政敵に陥れられたことに端を発する。康凱「羅馬帝国的殉道者? ―波愛修斯之死事件探析」『世界歴史』2017年第1期。

(32)エドワード・ギボン著、黄宜思他訳『羅馬帝国衰亡史』商務印書館、1996年、P166。

(33)これを機にテオドリックの人格は様変わりした。それまで人を信じて疑わなかった彼が、ローマ市民が所有する武器を没収する命令を出した。持つことが許されたのは家庭用の小刀のみである。それまで公明正大、虚心坦懐だった彼が密告をそそのかすようになり、元老院を摘発し、ボエティウスは投獄・処刑された。宗教に寛容だった彼がキリスト教の布教禁止を準備するのもこの頃である。

(34)ビザンツ帝国の歴史家プロコピオスは次のように記している。「ローマの民衆は戦争と都市包囲がもたらす苦難にまったく免疫がなかった。そのため、食糧不足や入浴できないことに苦痛を感じ始め、気づいてみれば都市防衛のために睡眠さえ諦めなければならない状態だった。……彼らは不満と怒りをつのらせ……やがて徒党を組んでベリサリウスをあからさまに罵倒するようになった」。プロコピオス著、王以鋳・崔妙因訳『普洛科皮烏斯戦争史』商務印書館、2010年、P486。

(35)プロコピオス著、王以鋳・崔妙因訳『普洛科皮烏斯戦争史』商務印書館、2010年、P500。

(36)ヘルムート・ライミッツ著、劉寅訳「羅馬帝国与加洛林帝国之間的歴史与歴史書写」王晴佳、李隆国主編『断裂与転型:帝国之后的欧亜歴史与史学』上海古籍出版社、2017年、P276。

(37)「皇帝の悪名高き徴税官は任期内に大儲けすることができた。……彼が徴税できる範囲には民衆の負担能力以外の限度がなかった。軍人の俸給でさえ、彼にとっては収奪の対象だった」。ジェームズ・トンプソン著、耿淡如訳『中世紀経済社会史』商務印書館、1961年、P185。〔ここでいう「彼」が本文に名前の出たアレクサンダー。アレクサンダーはユスティニアヌス治世の財務官で、金切り鋏で金貨を小さくした逸話がある。「『金切り鋏』アレクサンダー」は徴税で蓄財した悪名高い税吏の代名詞〕

(38)「長安咫尺而不渡灞水、百姓未見公心故也」。『晋書・王猛伝』

(39)「中州之人、還之桑梓。然后回駕岱宗、告成封禅、起白雲于中壇、受万歳于中岳、爾則終古一時、書契未有」。『晋書・苻堅載記』

(40)『晋書・苻堅載記』

(41)『晋書・苻堅載記』

(42)「掃統万、平秦隴、翦遼海、蕩河源」。『魏書・世祖紀下』

(43)「自宰司之被戮辱、未有如浩者」。『魏書・崔浩伝』

※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「中国の五胡侵入と欧州の蛮族侵入(2)蛮族侵入」から転載したものです。

■筆者プロフィール:潘 岳

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。
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