Record China 2014年1月8日(水) 19時10分
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7日、祖国を離れて約10年たったイランのモフセン・マフマルバフ監督は、自らを「世界を旅する放浪者」と呼ぶ。新年連続インタビュー「アジア映画の今」最終回は第14回東京フィルメックス審査委員長を務めたマフマルバフ監督。作品写真提供:東京フィルメックス事務局
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2014年1月7日、祖国を離れて約10年たったイランのモフセン・マフマルバフ監督は、自らを「世界を旅する放浪者」と呼ぶ。新年連続インタビュー「アジア映画の今」最終回は、第14回東京フィルメックス審査委員長を務めたマフマルバフ監督。イランを代表する監督でありながら、人権・社会活動などが当局に問題視され、いまだ帰国できていないが、「映画を作れる場所が私の家だ」と語る。
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1957年、テヘラン生まれ。10代で革命運動に身を投じ、4年余りの投獄生活を経験した。82年に映画監督デビュー。87年の「サイクリスト」が「イラン人なら誰もが観た」と言われるほどの大ヒット。世界各地の映画祭で紹介され、高い評価を得る。代表作に「パンと植木鉢」(95)、「カンダハール」(01)など。最新作は釜山国際映画祭の前ディレクター、キム・ドンホ氏に密着したドキュメンタリー「微笑み絶やさず」。今回のフィルメックスで上映された。
2004年、保守強硬派のアフマディネジャド政権発足を前にイランを出国。アフガニスタン、タジキスタン、フランスを経て英国に移住した。妻のマルズィエ・メシュキニ、娘のサミラとハナも監督、息子のメイサムはプロデューサーという映画一家だ。
▼主なやり取りは次の通り。
──キム・ドンホ氏は韓国当局の検閲担当だった。にもかかわらず、検閲制度の廃止に成功した理由はどこにあったと思うか。
彼はあらゆることから「何かを生み出せる」人だ。検閲問題は別にして、制限の中で何かを探している。私は人間とは、芸術家か牧師のどちらかだと思う。彼が牧師であり、宗教的な人であっても、宗教の中から芸術を探し出せたのではないか。
──人間的にどんな面に最も魅力を感じたか。
性格だ。「本当の人間」は彼のような人を指す。彼は他人をとても尊敬している。有名無名にかかわらず、誰にも平等に対応する。いつも微笑んでいる。映画祭のボランティアと、ジュリエット・ビノシュに見せる笑みが一緒。それをコントロールするのは大変だと思う。
マネージメント能力が非常に高い。作業の過程でどんどん新しいものを生み出す。普通はできないことだ。
──監督がもしイランに帰れたら、どんな作品を撮りたいか。
難しい。(しばらく考えて)戻ってみないと状況が分からない。イランには語られていない物語がたくさんある。状況によって選ぶテーマは変わると思う。
私は04年にイランを出て、アフガニスタンで映画を2年間教えた。イランでは(保守強硬派の)アフマディネジャド大統領が誕生した。しかし、(娘で映画監督の)サミラの撮影現場で爆発事件があり、タジキスタンへ移って2年を過ごした。現地では映画祭を開催したり、映画製作を教えたり。作品も2本撮った。
さらに政治的な理由でフランスへ行った。フランス滞在中、イランで不正選挙に抗議する暴動が起きた。その関連で1年半ほど活動したり、イランからの避難民の世話をした。だがフランスの警察に「あなたはテロ攻撃を受けるかもしれない。護衛を付けます」と言われた。どこへ行くにも誰かついてくる。嫌になった。(国境検査を免除する欧州の)シェンゲン協定のため、パリは人がどこからでも入って来る。そこで(同協定適用外の)英国へ行き、再び映画を撮り始めた。イスラエル、イタリア、ロンドン、韓国など各地で撮ってきた。
イランを出て9年以上になる。最近は映像製作より小説を書くことに力を入れてきた。各国でワークショップも行った。次はグルジアで長編を撮るつもりだ。
今はイランの旅券が更新できず、フランスの旅券を取得し、英国に住んでいる。英国は子どもたちが住んでいるといった方が正しい。私は1年の半分は自宅にいない。世界をあちこち旅する放浪者。映画祭やワークショップ会場では、本音を出せるから好きだ。映画を作れる場所が私の家。僕は地球生まれで、自分の国は映画だと思っている。
私たち人間はみな地球人だ。国境を作った人々に腹が立つ。いったい誰が作ったんだ? 言葉はなぜたくさんあるんだ? みな自国の文化や言葉を大事にするが、同じ言葉を話せばいいのに。いつか「地球語」が話される日が来るだろう。それは映画かもしれない。映画はみなが語るものだから。
言葉の壁を取り払えば、どこの人も皆同じだ。恋に落ちたり、ふられたり、笑ったり、泣いたり、孤独を感じたりする。みな同じ人間だから。
──故国を離れて放浪者になった。つらい時には何が支えになっているか。
これまで世界50カ国を訪れた。心が折れることもしばしばだ。つらい時は「自分はどれほど人の心を壊してきたか」と考える。今後は人を傷つけないようにしようと思う。人の尊厳について考える。
誰かに何かを「食べなさい」と言うのと、「どうぞ食べて下さい」と言うのでは、あなたと対象の関係は異なる。あなたが命令する時は、相手が逆に上にいるのだ。
今の私たちはどんな国、どんな社会も、人を人として見ていない。肩書きで人を見下している。誰かに肩書きで見られた時、私の心は折れる。しかし、悲しみをエネルギーに変えて書くんだ。
──海外から見てイラン映画界はどう変化したか。
悪化している。検閲とデジタル化が原因だ。昔は特別な人が特別な話をしたい時、映画を撮影するものだった。今は携帯電話一つで誰でも撮れる。製作本数が観る人の数より多い。観客より映画監督の方が多い。
作品の質は落ちている。イランではここ数年、検閲が非常に厳しかった。今いい映画を探し当てるには、1000本は観なければならない。昔は映画が一つの視線を持っていた。今はみなカメラをただ持っているだけ。ペンを持つ人が、全員記者とはいえないだろう?
──監督からみて良い映画とは。
難しい。私にとって映画は娯楽。最初から最後まで見続けられれば、良い映画だろう。黒澤明作品のようにね。テーマ性が非常に強く、深い話をしているのに、最後まで座って観ていられる。
ただ、娯楽性だけでは商業映画になってしまう。人に何を教えられるのか。道化のように人を楽しませ、先生のように教える。これだけではテレビドラマだ。さらに必要なのは魔法と詩。一人の監督の中に、道化、先生、マジシャンがいなければならない。三つそろえば良い映画ができる。(黒澤明監督の)「羅生門」を思い出してほしい。最初から最後まで、観客は「物語はどこへ行き、どうなるのだろう」と思いながら観る。
魔法使いのように私たちを引き込むから、何度も観たくなる。だから「羅生門」はマジックなのだ。娯楽性だけの作品は商業映画だ。学ぶだけの映画は宣伝性が強くなる。マジックだけの映画もある。見た直後は魔法にかかったように思うが、数日後には消えてしまう。
しかし、娯楽性のない映画は終わりまで観られない。学ぶものがない映画は楽しいだけ。マジックのない映画は2度観たくない。(イランのアミール・ナデリ監督作)「駆ける少年」はマジックだ。だから何度でも観られる。しかし、デジタル化が進んで以降、三つを兼ね備えた作品はなくなった。イランに限らず世界的な現状だ。(文・写真/遠海安)
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