Record China 2013年4月4日(木) 3時21分
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3日、中国・広東省の夕刊紙・羊城晩報の記者は先月10〜17日、中国青年メディア関係者代表団の訪日活動に参加した。記者は滞在中、政府や市民など日本の社会全体が中国の大気汚染問題に極めて高い関心を寄せていることを実感した。写真は日本。
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2013年4月3日、中国・広東省の夕刊紙・羊城晩報の記者は先月10〜17日、中国青年メディア関係者代表団の訪日活動に参加した。記者は滞在中、政府や市民など日本の社会全体が中国の大気汚染問題に極めて高い関心を寄せていることを実感した。羊城晩報が伝えた。
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今回の訪日活動では、東京大学先端科学技術センターの竹川暢之准教授の講座が特別に設けられ、日本の大気汚染と対策面での利害に関する説明が行われた。1960〜70年代、高度成長を追い求めた日本は各地で深刻な大気汚染に見舞われ、大気汚染の痛みを実際に経験している。
環境汚染により短期間に多くの発病者と死亡者が発生する事件を公害事件と呼ぶ。20世紀の世界環境「8大公害」事件(ベルギー・ミューズ渓谷の亜硫酸ガスなどの大気汚染事件、米国ロサンゼルスの光化学スモッグ事件、米国ペンシルバニア州ドノラの大気汚染事件、英国ロンドンのスモッグ事件、日本水俣病事件、日本四日市ぜん息事件、日本カネミ油症事件、日本富山のイタイイタイ病事件)のうち4件もの公害事件が日本で発生している。有名な四日市ぜん息は当時の深刻な大気汚染が引き起こした公害病だ。
■深刻な工業汚染 四日市ぜんそくが全国に蔓延
第2次世界大戦終了後、日本は重化学工業を優先させる経済発展政策を推進し、既にある京浜工業地帯、中京工業地帯、阪神工業地帯、北九州工業地帯を中心として、太平洋ベルト地帯構想を基礎とする「新産業都市」プロジェクトの建設を全力で進め、雨後のたけのこのように次々と工場が誕生した。
四日市は1955年に初の石油化学コンビナート施設が建設された後、8年間で3つの石油化学コンビナート施設が相次いで建設され、周囲には大小さまざまな化学工場が数多く建設された。
それに伴って汚染問題が発生。石油製油と工業燃料油は大量の硫黄酸化物、炭化水素、窒素酸化物、浮遊粉じんなどの大気汚染物質を排出し、四日市は一年中、黄色いスモッグに覆われた。大気中の二酸化硫黄濃度は基準値の5、6倍を超え、スモッグは厚さ500mにも達した。工場付近は鼻を突くような異臭が流れ、住民は夏でも窓を開けることができなかった。
1961年、四日市でぜんそくの発作を起こす人が多数発生した。1964年、連続3日間にわたりスモッグが晴れず、ぜんそく患者の中で死亡する人が現れ始めた。1967年、苦痛に耐え切れなくなったぜんそく患者の自殺者が出る。1972年、四日市のぜんそく患者は817人に達し、死者が10人を超えた。大気汚染により呼吸器系疾患が引き起こされる公害病「四日市ぜんそく」はここから名付けられた。日本ではほぼすべての重要工業地帯で類似の状況が発生し、四日市ぜんそくは急速に全国に蔓延した。日本の環境庁のデータによると、1972年までの日本全国の四日市ぜん息の患者は総計6376人に上る。
■訴訟による民衆の反撃、透明な水と青い空を自分たちで守る
環境の悪化により、人々の健康は大いに損なわれた。日本の市民はこの状況に対し、座して死を待つことは選ばず、生存のための水源や土壌、空気を守るために、法律を武器に次々と団体を組織し、集団訴訟を行った。1967年、四日市の企業が起こした公害によってぜんそくの健康被害を受けた住民9人が電力会社、化学会社、石油精製会社など企業6社を相手取り訴訟を起こし、工場の運営停止と巨額の損害賠償を請求した。これは、日本初の大気汚染が引き起こした公害訴訟であり、新潟の水俣病訴訟や富山県のイタイイタイ病訴訟、熊本の水俣病訴訟と合わせて4大公害訴訟と称された。
この訴訟は4年10カ月後に原告側の勝訴で決着が付いた。当時、裁判所は伝統的な責任追求の判定を覆し、公害企業による共同の不法行為を認め、原告側の全面的な損害補償請求を支持した。だが工場運営を停止する原告団の請求は却下された。この判決が出た後、各地で連鎖反応が起こり、日本政府は慌てて「公害健康被害補償法」などの関連法律を制定した。
四日市公害訴訟後、日本各地で大気汚染を原因とする公害訴訟が数多く起こされた。中でも、最近有名な公害訴訟は東京大気汚染訴訟だ。
1996年5月31日、車の排気ガスにより各種疾病を患った患者や死者の家族102人が日本道路公団(当時)、自動車メーカーに対して東京地方裁判所に訴訟を起こした。その後数年間で、同じような被害を受けた原告がそれぞれ同じ被告側に対して訴訟を起こし、訴訟数は6回、原告人数は総計633人に上った。
2012年12月29日、日本の東京地方裁判所は第1回訴訟の判決を下したが、原告と被告は共に判決を不服とし、東京高等法律裁判所に控訴した。2006年9月28日、第1回訴訟の控訴判決が下され、裁判所は原告と被告に対し、和解建議書を提出、双方に話し合いで問題を解決するように伝えた。2007年8月8日、134カ月間、6回にわたる訴訟で原告と被告がようやく和解に達し、被告は大気汚染による疾病患者の医療費助成制度を設立し、政府は自動車の排気ガスを規制する対策を実施し、自動車メーカーは12億円の和解金を支払うことで合意に達した。しかし、この時点までに、633人の原告のうち、107人が自動車の排気ガスの汚染による疾病ですでに死亡していた。
日本の汚染対策の過程において、それを推進する上で民間公害訴訟が欠かすことができない重要な推進力となった。また、巨額の損害賠償金が政府を強制的に動かすと同時に、企業に汚染対策を重視させ、汚染を防止・管理する関連法律の制定を促した。
■汚染物質の「総量規制」で対応
東京大学先端化学技術研究センターの竹川准教授は、「1960年前後に発生した四日市ぜんそくなどの大気汚染問題は石油化学工業の発展に伴って顕在化した。しかし、最初の頃は、人々はこの件に対しあまり大きな関心を寄せていなかった」と語る。
竹川准教授によると、1970年に東京杉並区で初めて光化学スモッグによる身体上の疾病が発生したという。「1970年の冬に、光化学スモッグが発生し、2万人がアレルギー性結膜炎を疾患した。その後、日本はようやく一定して大気汚染を放出する工場などに対し大気汚染対策措置を取り始めた」。
竹川准教授は日本の大気汚染対策で最も成功した点は、主要な汚染物質に対し、法律を定めて有効的な排出規制措置を取ったことだという。「当時、日本の大気汚染の主要化学成分は硫黄酸化物だった。1969年に、日本は初めて二酸化硫黄の環境基準値を制定した」
資料によると、日本は1968年に「大気汚染防止法」を制定した。1970年12月に、いわゆる公害国会と呼ばれる臨時国会を召集し、1967年「公害対策基本法」に大幅な改正を行い、旧法の「生活環境を保全することは、経済の健全な発展との調和が図られるようにするものとする」という項目を削除し、事実上、「経済優先」の原則を否定、「環境優先」の原則を確立した。1970年、1972年、1974年には日本はさらに「大気汚染防止法」に改正を行った。
日本は世界で初めて硫黄酸化物に対する「総量規制」を導入した。1970年代後半から、日本の硫黄酸化物の排出による大気汚染は著しい改善が見られるようになった。
自動車の排気ガスの増加に伴い、1981年から日本は主要な都市で窒素酸化物の規制も実施し始めた。1992年には「自動車NOx法」を、2001年には「自動車NOx・PM法」を制定。自動車排気ガスの規制を強化したが、この期間は複雑な駆け引きのやりとりがあった」と竹川准教授は話している。人の健康に深刻な影響を与えるPM2.5は、日本では2009年になってようやく環境基準に制定されたという。
日本の環境庁関連部門の行政は非常に厳格で徹底しており、基準に達しない場合は、例外なく営業停止あるいは製造する製品変更を強制され、ほかの選択肢はないという。大量汚染排出型・大量エネルギー消費型の企業は営業停止あるいは製品変更を余儀なくされ、他の企業も大量の資金を投入して環境保全型の製品作りに方向転換せざるを得ないという。
1980年代、公害教育は日本の小学生の教科書にも登場した。日本文部省(現文部科学省)は学校環境教育の規則を制定し、小学校から大学までの環境システムを築き上げた。
これ以外に、日本政府は大量の資金を環境対策に投入した。1970〜1980年代、日本が直接用いた環境対策汚染の財政予算はそれまでの2.3倍に増加した。
■原子力発電所「安全神話」の崩壊、エネルギー源と汚染の両方を心配
中国青年メディア関係者の代表団は3月10日に東京に到着した。その路上で、原発廃止を訴えるデモ行進を見かけた。人々は激情した様子で「原発再開反対」という抗議の声を上げ、国会に向けて長い列を作って歩いていた。翌11日が東日本大震災の2周年であり、当時の大地震が引き起こした福島原発事故は今なお日本の人々にとって恐ろしい記憶となっている。報道によると、当日約1万人の人々がこのデモに参加したという。
3月9日には、日本の著名作家・大江健三郎氏による反核集会が開かれ、約1万5000人の人々が自主的に集まった。フラッグやスローガンが書かれたプラカードを手に、皆口々に「福島の悲劇をまた繰り返させてはならない」と声を上げていた。
過去の半世紀以上の間、日本は絶え間なく原子力発電所の規模を増大させ、今では世界第3位の原子力発電所を保有する国となった。日本の長い海岸線には、総計55基の原発が建設され、それぞれが日本内陸部に電流を送り、経済大国の電力供給を支えてきた。
2011年の福島原発事故後、電力供給の全体の3割を占める原発が相次いで運転を停止した。日本は電力供給を確保するため、火力発電所による電気供給を増加させた。日本の財務省報告の貿易統計データによると、日本が2012年にアフリカから輸入した液化天然ガスは前年の2.1倍に当たる総量877万トンで過去最高を記録。これによりアフリカ産液化天然ガスのシェアは1割程上昇した。
竹川准教授は、「火力発電所の比重を増加させ、原発の比重を減少させる。どのような措置を取るにしても、化石燃料を使用する際に産出される汚染物質を取り除くことは不可能であり、最終的に大気の中に排出される。大気汚染を心配すると同時に、原発の安全性も心配しなければいけない。これは日本にとって、ひとつの試練であり、長い時間をかけて答えを探し出さなければいけない課題だ」と主張する。
「灰色の煙霧」という言葉が生まれた過程の目撃者であり、中国の「灰色の煙霧」の基準の主な制定者でもある中国気象局広州熱帯海洋気象研究所の研究員・呉兌(ウー・ドゥイ)氏は「灰色の煙霧の形成と温室気体の原因は、気候変化の原因で一致している。つまりこれは化石燃料の燃焼に拠るものであり、これが根本的な問題である」と指摘する。
中国外交部(外務省)の洪磊(ホン・レイ)報道官は3月22日の定例会見で、日本経済協会代表団の団長が大気汚染対策で日本企業のノウハウの提供を申し出たことに関する質問に対し、「中国側は日本側との関係分野に関する協力が進められることを希望している」とコメントした。
在日中国人作家の毛丹青(マオ・ダンチン)氏(神戸国際大学教授)は「日本の多くの都市がかつては深刻な工業汚染地区で、大気汚染が著しかった。しかし、日本人は早くからこれらの問題を重視し、現在では公害対策を上手く進めている。日本が先に経験した多くの苦労を教訓として、中国は早めに対策を講じるべきだ」と語った。確かに、この方法なら、回り道を避け、代償を最小限に抑えることができるかもしれない。(提供/人民網日本語版・翻訳/MZ・編集/内山)
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