<中国人が見た日本>言葉はコミュニケーションを図るだけの道具ではない

Record China    2011年11月19日(土) 11時23分

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16日、日本に留学経験のある中国の作家・陳希我氏は「障害となる言葉」と題した記事を中国のブログサイトに発表した。写真は10月、北京で行われた外国語を話すキャンペーン。

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2011年11月16日、日本に留学経験のある中国の作家・陳希我(チェン・シーウォー)氏は「障害となる言葉」と題した記事をブログサイト・網易博客に発表した。以下はその内容。

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中国に帰国後しばらくは中国語が上手く話せなかった。なぜ皆あんな話し方をするのだろうと奇妙に感じたが、周りも筆者の話す意味が理解できない。幸い恋人と一緒に帰ったので、2人で日本語を話した。言葉は思考の道具というが、中国語の感覚が戻るにつれ、筆者は再び中国人的な物の考え方をするようになり、やがて完全に中国人に戻った。

そういえば、日本に行ったばかりの頃も日本語に慣れなかった。漢字と仮名がごちゃ混ぜで、日本人の話もあいまいで分かりにくい。何が言いたいのかいまひとつすっきりしないのだ。もちろん、例外もある。どうやら人類は「人をののしる言葉」と「セックス」に関する内容には自然に感応するようになっているようだ。

彼女(今は妻だが)とはすっかり中国語で話しているが、たまに日本語を使う。子どもに聞かせたくない話をする時だ。筆者は日本語、福州語、標準語、妻は日本語と標準語しか話せない。なので、子どもを「隔離」するには日本語を話すしかない。だが、最近は子どもも日本語が少しずつ分かるようになってしまったため、この方法も効力を失いつつある。

銭鐘書の小説「結婚狂詩曲―囲城(原題:囲城)」で男女が電話で話をする時、同僚に分からないよう外国語で話す場面がある。外国語だと普段は言えない言葉でも言えてしまうから不思議だ。例えば、「愛してる」とか「君と××したい」とか。さて、これは言葉による「疎通」なのか、それとも「回避」なのか?

言葉は思考の道具であるだけでなく、イデオロギー(観念形態)でもある。そのため、1つの民族を併合したければ、言葉を代えればよい。フランスの作家・ドーデの短編小説「最後の授業」ではフランス語の教師が「国語がドイツ語に代わるため」教壇を追われる。だが、実はこの教師こそが子どもたちに母国語ではないフランス語を国語として教えていた「加害者」だったのだ。

多くの中国人にとって外国語=英語だが、筆者にとっては日本語だ。シンガポールに行った時のこと。日本語は通じないと分かっていたが、2回だけどうしても急に便意をもよおし、「トイレ」と言ってしまった。すると、意外なことにすぐに通じた。帰国後、得意げに妻に報告したら、妻は「トイレは英語のtoiletからきてるから」とピシャリ。なんだ、そうだったのか。

実はシンガポールには中国系が多いため、互いに中国語で話せばよかったのだ。だが、彼らは海外から来た筆者に中国語を使うという発想がなかった。我々の間には筆者の同行者である中国語が話せる外国人が通訳として入った。中国語が話せる人間が、同じく中国語が話せる人間に英語で話し、それを中国語など話せそうもない西洋人がわざわざ中国語に訳す。何とも滑稽な光景ではないだろうか?(翻訳・編集/NN)

●陳希我(チェン・シーウォー)

1960年代生まれ。1990年代に日本に留学経験あり。教員や編集者、さらにはカジノや埠頭での仕事も経験した。帰国後は作家、コラムニストとして活躍している。比較文学・世界文学の博士課程に身を置きながら、雑誌の編集者を務めている。

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