Record China 2015年4月7日(火) 5時28分
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5日、シンガポール華字紙・聯合早報は、中韓関係の変遷に伴うチャイナタウンの出現と、在韓中国人の地位の向上を報じた。写真は仁川のチャイナタウン。
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2015年4月5日、シンガポール華字紙・聯合早報は、中韓関係の変遷に伴うチャイナタウンの出現と、在韓中国人の地位の向上を報じた。
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仁川地下鉄の1番出口を出ると、道の向こうに「中華街」と書かれた立派な門が見える。高さ10メートルあまりのこの門は、2000年に山東省威海市から贈られたものだ。
1882年に起こった大規模な反乱事件「壬午事変」では、清国の兵士3000人が鎮圧にあたり、軍に同行した40人の商人や他の平民が近代の在韓華僑のルーツとなった。1920年代には、山東省からの移民が仁川に居住するようになったため、韓国華僑の多くは山東省を原籍としている。
仁川チャイナタウンの規模はそれほど大きなものではない。1本の通りにレストランや中国商品などを売る小規模店舗が40〜50軒並ぶだけのもので、サンフランシスコや横浜の規模とは比べ物にならない。仁川のチャイナタウンが小規模なものにとどまっているのは、かつて韓国で数回にわたって行われた中国人弾圧政策が原因だ。
1931年に中国の吉林省で起こった「万宝山事件」により、朝鮮人と中国人が衝突し、漢城(現在のソウル)、仁川、平壤などで中国人排斥の機運が高まり、中国人の商店が打ち壊されるなどした。
また、1961年5月16日、大統領となった朴正煕は、東南アジア諸国の経済を華僑が握っていることに危機感を持ち、韓国国内の中国人を厳しく取り締まった。中国人を含めた外国人による不動産の購入を禁止し、中国人による飲食店の売買や、中華料理店の値上げを禁止した。また、中国人の長期居住を制限し、3年ごとの更新制とした。朴正煕による弾圧政策を受け、在韓中国人人口は急激に減少、約1万人が米国、台湾を始めとする他国へと移住していった。1992年の中韓国交正常化の後、中国の経済発展によって韓国の中国への依存度が高まり、韓国社会でも国内に居住する中国人の価値が注目されるようになってきたという。(翻訳・編集/岡本悠馬)
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